じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 前期末(第2クォーター末)をひかえて、期末試験勉強などのため図書館が賑わっている。そのせいで、夕刻には時計台前は迷惑駐輪で道路がふさがれ、緊急車両の通行を妨げる危険な状態となっている。7月13日掲載よりさらに混雑。

2016年07月21日(木)


【思ったこと】
160721(木)トールネケ『関係フレーム理論(RFT)をまなぶ』(73)アナロジー、メタファー、そして自己の体験(9)自己を経験すること−視点取りの結果(2)

 7月19日の続き。

 視点取りと自己の経験との関係については、RFTのいくつかの前提に基づいて論じられているため、その前提をしっかり理解しておくことが必須である。

 その前提は、まずは派生的関係反応や関係フレームづけといったRFTの出発点にある。子どもはさまざまな私的出来事をタクトすることを学習していくが、その過程で、「ここ」と「あそこ」、「いま」と「あのとき」、そして、「わたし」以外の別の視点「あなた」、「あの人」、「それ」という視点を獲得し、ある固有な視点を経験できるようになる。
If the concepts of "you," "there," and "then" were to vanish (which is hardly even conceivable to any of us), then "I," "here," and "now" would lose their respective qualities. What we now experience or mean by these expressions would cease to exist. The way I experience having a perspective of my own, seeing things firom precisely where I am situated, is supported by the experience that a different perspective, seeing from where someone else is situated, is possible.【原書103頁】
仮に「あなた」,「あのとき」,そして「あそこ」の概念が消滅するとしたら(それは誰にとってもほとんど想像すらできないことなのだが),そのときには, 「わたし」,「今」, そして「ここ」は,それぞれの特質を失うだろう。私たちがにれらの表現を通じて現在経験したり意味したりしていることは,存在しなくなるだろう。私が,自分自身の視点を持って私自身が立っているまさにその位置から物事を見ているのだ,という経験をするその仕方は,ほかの人が立つ位置から見るようなさまざまな視点も可能なのだ,という経験によって支えられている。【翻訳書143〜144頁】
 要するに「初めに私ありき」ではない。「わたし」という固有な感覚は、おそらく、「わたし以外」の視点を獲得できたときに初めて生じるものであろう。

 視点は、「わたし/あなた」のほか、空間的な関係「ここ/あそこ」と、時間的関係「今/あのとき」を基本とするが、個人が直接的に経験できるのは「私が−今−ここで」のみであるとされている。

 ここで少々脱線するが、ここのところで私自身が多少疑問に思っているのは、「私たち」という一人称複数の視点である。もっとも、現代日本語では、一人称複数を表す固有の代名詞はない。あくまで「私」という単数形に「たち」をつけて表現している(もしくは「我」に対して「我々」)。外国語のことはよく分からないが、中国語の場合も、おそらく「我(ウォー)」という単数形に「メン(にんべんに門)」をつけて、「ウォーメン」と表現している。韓国語の「ウリ」は単に「私たち」という意味ではなく、同胞意識を含んだ語であると聞いたことがあるがどうだろうか。いっぽうヨーロッパ系の言語では、英語の「I」と「We」、ロシア語の「Я」と「Мы」というように、「私たち」には「私」とは全く別の語があてられているように思える。ま、日本語で固有の一人称複数代名詞が存在しない?のは、同胞意識に欠けるからではなく、むしろ日本語では主語を省略する傾向があり、「私たちは」を省略しても文脈だけで表現できるためかもしれない。
 例えば、「疲れた」というのは「私が疲れた」という意味だが、日常会話では「私は」は省略される。また、「疲れたねえ」という時は、文脈から判断して「私たちは疲れたねえ」という意味になるが「私たちは」は省略される。省略されても意味が通じるとなれば、固有の代名詞は不要となり、必要がある時だけ「私たちは」、「我々は」といった使い方をすればそれで間に合うのであろう。

 次回に続く。