じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 妻の実家で、枕の蕎麦殻を洗った。バケツなどに蕎麦殻を入れて温水シャワーで洗い、布袋に入れて干した。私が生まれ育った家では、毎年、洗った蕎麦殻を庭で天日干ししていたが私自身は手伝ったことは無かった。もっとも今の時代、ヘタに天日干しすると、せっかく洗った蕎麦殻に花粉やPM2.5が付着してしまいそう。

2016年05月6日(金)


【思ったこと】
160506(金)トールネケ『関係フレーム理論(RFT)をまなぶ』(17)「考える」と人間の言語(3)私的出来事のタクトと視点取得

 5月5日の続き。

 第2章33頁以下(翻訳書47頁以下)では、私的出来事のタクトをどのようにして学ぶのかが論じられている。

 第三者が共通して観察可能な事物については、子どもがそれをタクトした時に「そうだねえ」というように強化することはできるが、子ども自身の私的出来事は定義上、観察することができない。とはいえ、痛みのような出来事は、それを引き起こしている事故や怪我の程度から類推できるので「痛いでしょ」、「痛いねえ」というように子ども自身が発するタクトを補助することができる。同じく、恐怖体験などは文脈から類推できるので、例えばお化け屋敷に行ったあとで親が「さっきは怖かったねえ」と言えば、子どもが恐怖体験をタクトすることを補助できる。このほか、子どもの表情やしぐさなどから類推して、「くたびれたねえ」、「可笑しいねえ」、「難しいねえ」といったタクトすることを補助することもできる。

 少々脱線するが、以上から、以前、質的心理学会のシンポで拝聴した以下のような事例が思い浮かぶ。
3番目の事例は、発達障害の子どもの場合には視点の移動が起こりにくいという事例であった。正確な内容は失念してしまったが、真冬のグラウンドで遊んでいた子どもの手を握った時に、先生が「冷たいねえ」とつぶやいたというような内容であった。何十年も前のエピソードであり当時は発達障害についての知見が限られていたと思われるが、どうやら自閉症であったようだ。そして、その子は、部屋に戻ってストーブに手をかざしたときに、「冷たい、冷たい」とつぶやいていたという。その子にとっては、先生に手を握ってもらった時の「暖かさ」がストーブの「暖かさ」と同じ刺激であったため、暖かさを表現することばとして「冷たい、冷たい」を発したのであろう、というようなお話であった。
 この例では、子どもの手を握った先生は、先生自身の私的出来事を「冷たいねえ」とタクトしていた。しかし、子どもにとっては、先生の手が温かかったことから、温かい(暖かい)という私的出来事のタクトに対して「冷たい」という言葉を使ってしまったのである。自己と他者の私的出来事を区別できるようになるためには、視点取得(Perspective Taking)の発達が欠かせない。このあたりの問題も、「心の理論」として説明するか、関係フレーム理論を導入するか、興味深い議論が期待される。

 第2章ではもう1つ、自分自身の行動をタクトするプロセスが論じられていた。当然のことながら、そのためにはまず、タクトの対象となる行動が定型的に生じていることが必要である。そして、タクトできるようになった後では、「手を挙げなさい」、「ボールをキックしなさい」、「返事をしなさい」というように、第三者からの指示に対しても対応する行動を適切に発することができるようになる。

 ちなみに私自身は、子どもの頃から、第三者の指示で自分の体を動かすことを苦手としていた。体育の時間に「もっと腰を曲げて」などと言われても、どういう動作をしてよいのか分からない。今でも、胃のバリウム検診の時など、「体を右に回してください」などと言われても、どう動かしてよいのか一瞬躊躇してしまう。

次回に続く。