じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 南部アフリカ旅行中に入手したジンバブエ・ドル。額面は500億ドルとなっているが、通貨としての価値は無い。写真下は、現地の物価。いずれも、米ドル表示。【2010年3月時点】。ウィキペディアの情報によると、これまでに発行された最高金額は100,000,000,000,000(百兆)ジンバブエ・ドルであるため、500億ドル程度の紙幣は、観光みやげ程度の価値しかない。


2014年7月18日(金)

【思ったこと】
140718(金)長谷川版「行動分析学入門」第13回(8)人間と社会に関する諸問題(8)お金とは何か?

 第3章の3.2.4.で言及したように、お金は般性習得性好子の代表格です。完全な自給自足生活をしている人たちや、種々の事情で死に直面している人たちなどを除けば、お金は、人々の行動を強化する力をもっているという点で「好子」の定義の基準を満たしており、かつ、多様な裏付け好子や交換価値によって好子としての機能を維持しているという点で、「生得性」ではなく「習得性」の好子であると断定できます。

 しかし、2009年1月24日の記事、あるいは、

日本行動分析学会「熊野集会」(12)地域と共に生きる〜地域通貨〜(5)お金とは何か

で、以下のように指摘した通りであり、
何かの活動に対してお金を支払うという部分だけに注目すれば、お金は、トークンであり、般性習得性好子で間違いない。.....【略】.....しかし、ある集団、さらには国の経済という規模では、もっと別の行動随伴性を考える必要がある。人々がなぜお金を求めるのかという問題は、決して、習得性好子として機能しているから、だけでは済まされない。フロアからも発言させてもらったが、もし、お金が、習得性好子として絶対的価値を持つならば、国民全員に1億円を配ればみんなハッピーになるはず。しかし、現実にそんなことをしたら1億円はタダの紙切れと化してしまう。お金がお金として機能するためには、もっと別の必要条件がある。
要するに、お金の本質は、「自分のために他人を動かすツール」という点にあるのです。そして、現代資本主義社会では、お金が有効に機能するためには、限られた資源(食物、土地、建物、道具、技能など)が占有され、その権利が守られることが必要条件となります。

以下、リンク先から該当部分を転載します。
...かつて人類は、力ずくの争いもって、資源を奪い取り、また、他者を奴隷とすることで、上記の機能を確保しようとしてきた。しかし、それでは権力者や貴族など、一部の支配層しか幸せになれない。そこでいろいろな争いを経て、一時代前には共産主義国家を作ろうという動きもあったが、これまた、人類のサガは変えられないというところもあって、一部の権力者だけを利する結果、あるいは生産性や向上を阻害する結果を招いてしまった。そういう中で、現時点で最善のシステムとして採用されているのが、私有財産制+資本主義社会ということになる。この社会のもとでは、人々は基本的に自由ではあるが、私有財産制によって、限られた資源はお金のある人に占有されてしまう。そうすると、衣食住を確保するためには、自由であるはずの時間のかなりの部分を割いて、他人のために働き、お金を受け取るという「好子消失阻止の随伴性」がモノを言うようになる。もし、いつでもタダで食べ物や衣類や住居が自由に手に入るようになったら、人々は、一部のボランティア活動を除けば、わざわざ他人のために働くということはしなくなるであろう。良いとか悪いとかいうことは別として、とにかく、この社会における労働は、ある程度の格差と占有がもたらす「好子消失阻止の随伴性」で維持されているのである。

 私がよく挙げるのは、老後の資金でマンション経営をするという事例。若い時にコツコツと貯めたお金で老後の生計を守ろうということは何ら悪いことではないが、そのお年寄りがマンションという土地と住居空間を占有することで、そこに住む若者は、家賃を稼ぐために働かなければならなくなるという「好子消失阻止の随伴性」に拘束されることになる。若者の労働は回り回って、結局はそのお年寄り自身へのサービス提供という形で還元されていくのである。

 農家と消費者の関係も同様である。農家の人たちは一生懸命働いて生産物を都会に供給する。しかし見方を変えれば、農家の人たちは、農地と生産手段を占有していると言えないこともない。もし、都会に住む人たちが一軒一軒広い土地を持っていて、家庭菜園だけで自給できる環境にあるならば、農家の人たちがいくら農産物を作っても、お金に換えることはできなくなってしまう。

 過去日記の繰り返しになるのでこのあたりで終わりとさせていただくが、とにかく、私有財産制のもとでの国家通貨というものは、人を働かせるツールとして機能する。しかし、地域通貨には、人を「好子消失阻止の随伴性」で動かすほどの力は無い。閉じたムラ社会であれば互酬は成り立つであろうが、これだけ人々の日々の移動、複数の集団間の入れ替わりがある現代では、きわめて限定的と言わざるを得ない。


 私がこういう考えに確信を持つに至ったのは、地域通貨の意義と限界について考察したことがきっかけでした【当時の古い記事は、こちらに残っています】。地域通貨は、特定のムラ社会での互助互酬を確実にするシステムとして、また、商店街の集客、ボランティア活動の活性化、環境保護のための付加的なトークンとしては有効に機能する場合もありますが、その範囲は限定的であり、法定通貨に代わりうるほどの強大な力を持つことは期待できない、というのが私の最終的な結論です。特に、法定通貨との交換できないような地域通貨は、交流が活発なムラ社会でない限りは無力です。【←もっとも、そういうムラ社会では、長年の慣習の中で互助互酬を確保できるので、わざわざ地域通貨を発行する必要は無いでしょう。】 なぜかと言えば、地域通貨は、習得性好子ではありますが、他人を好子消失阻止の随伴性で動かすほどの「強制力」を持たないからです。

 例えば、ある町で、郊外にお住まいのお年寄りを町の中心部のショッピングセンターに送迎するというボランティア活動を募ったとします。その場合、もし社会貢献自体が好子であるような人たちが十分に居たとすれば、法定通貨も地域通貨も一切使わずに、そのようなサービスを維持することができます。では、十分に人が集まらなかった時に、福祉限定(法定通貨とは交換できない)の地域通貨のやりとりでこれに代えることができるでしょうか? もし条件がうまく揃って、例えば、若いお母さんがお年寄りにベビーシッターをお願いして地域通貨を支払い、逆に、お年寄りがそのお母さんにショッピングセンターまで送迎をしてもらうというような互助関係が成立すればそれは可能です(二者間だけでなく、三者、四者間での互助もありえます)。しかし、サービスの提供が一方向だけとなり、誰かのところに地域通貨が貯まるばかりという事態になってしまうと、その「地域通貨大金持ち」は無償ボランティアをしているのと同じことになります。それでもなおボランティアが続くのであれば、わざわざ地域通貨システムを導入する必要はありません。いっぽうそれで続かないということであれば、法定通貨による謝金や雇用に頼らざるを得ません。もちろんその場合でも、一定の格差や占有が守られていて、働かないと生活できないような条件が揃っていることが前提となります。

 なお、完全な自給自足生活社会であっても、より高度な習得性好子(価値)を相互に提供できるような場があれば、法定通貨や地域通貨が機能する可能性もあります。例えば、ある村に、画家のAさんと、作曲家のBさんと、小説家のCさんが住んでおり、それぞれ自給自足の生活をしていたとします。そのさい、
  • Aさんの描いた絵をBさんが欲しがる
  • Bさんの作曲した音楽をCさんが聞きたがる
  • Cさんの書いた小説をAさんが読みたがる
というように三者関係が成り立てば、3人のあいだでは地域通貨が流通するでしょう。いっぽう、Aさんの絵には価値があるが(BさんやCさんが欲しがる)、Bさんの曲やCさんの小説は誰も欲しがらないという状況では三者関係は成立しません。その場合、BさんやCさんは、Aさんに生得的好子(農作物)や別のサービス(家の修理や日用雑貨など)を提供することで、Aさんの描いた絵を受け取ることができます。これが画家という職業の成立要件になります。

 ということで、

●お金の本質は、「自分のために他人を動かすツール」という点にある

という点は昔も今も将来も変わらないでしょうが、科学技術の進歩によって義務的な労働に費やす時間が減っていけば、資源の占有がなくても、芸術や知的資産といったより高度な価値が、お金を介して交換される可能性はあるように思います。

次回に続く