じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 一般教育棟構内ではソメイヨシノが満開に近づいてきたが、役目を終えて地上に落ちる椿の花もまた趣がある。ここの写真はほぼ毎年撮っており、過去記録が以下にあり。



2013年03月30日(土)

【思ったこと】
130330(土)日本行動分析学会「熊野集会」(12)地域と共に生きる〜地域通貨〜(5)お金とは何か

 3月28日の日記の続きで、この連載の最終回。

 ワークショップの際にも発言させていただいたが、地域通貨について考えていくと、結局、お金とは何かという問題につきあたる。見方を変えれば、地域通貨は、お金とは何かを考える格好の教材であるとも言える。

 何かの活動に対してお金を支払うという部分だけに注目すれば、お金は、トークンであり、般性習得性好子で間違いない。前振りで浅野先生が解説された通りである。しかし、ある集団、さらには国の経済という規模では、もっと別の行動随伴性を考える必要がある。人々がなぜお金を求めるのかという問題は、決して、習得性好子として機能しているから、だけでは済まされない。フロアからも発言させてもらったが、もし、お金が、習得性好子として絶対的価値を持つならば、国民全員に1億円を配ればみんなハッピーになるはず。しかし、現実にそんなことをしたら1億円はタダの紙切れと化してしまう。お金がお金として機能するためには、もっと別の必要条件がある。

 では、お金とは何か? 池上彰さんの番組ではよく「みんながお金だと思うのがお金」というようなことを言われているが、これは、ある国の通貨が「お金」として機能するための条件を述べたものであって、お金の本質を定義したものではない。また、一般に、お金には「交換の手段」、「価値の尺度」、「価値の貯蔵手段」などがあると言われているが、これではまだ不十分。また小学校では、物々交換では不便だからというお金が誕生したとも言われるが、これは、生産者が、相互に余剰物を交換し、不足物を補うというレベルの話であって、現代社会では通用しない。

 というようにいろいろ議論はあるが、私自身の考えは、2009年1月24日の日記やその続編で述べた通りであり、一口で言えば、「お金とは、自分のために他人を動かすツール」ということである。
  • 限られた資源(食物、土地、建物、道具など)のうちの一部を占有できるという機能。
  • 他人からサービスを受けるための契約書としての機能。これも、ある意味では、相手の生活時間の一部を自分のために占有する、という機能。
 リンク先にも述べたように、かつて人類は、力ずくの争いもって、資源を奪い取り、また、他者を奴隷とすることで、上記の機能を確保しようとしてきた。しかし、それでは権力者や貴族など、一部の支配層しか幸せになれない。そこでいろいろな争いを経て、一時代前には共産主義国家を作ろうという動きもあったが、これまた、人類のサガは変えられないというところもあって、一部の権力者だけを利する結果、あるいは生産性や向上を阻害する結果を招いてしまった。そういう中で、現時点で最善のシステムとして採用されているのが、私有財産制+資本主義社会ということになる。この社会のもとでは、人々は基本的に自由ではあるが、私有財産制によって、限られた資源はお金のある人に占有されてしまう。そうすると、衣食住を確保するためには、自由であるはずの時間のかなりの部分を割いて、他人のために働き、お金を受け取るという「好子消失阻止の随伴性」がモノを言うようになる。もし、いつでもタダで食べ物や衣類や住居が自由に手に入るようになったら、人々は、一部のボランティア活動を除けば、わざわざ他人のために働くということはしなくなるであろう。良いとか悪いとかいうことは別として、とにかく、この社会における労働は、ある程度の格差と占有がもたらす「好子消失阻止の随伴性」で維持されているのである。

 私がよく挙げるのは、老後の資金でマンション経営をするという事例。若い時にコツコツと貯めたお金で老後の生計を守ろうということは何ら悪いことではないが、そのお年寄りがマンションという土地と住居空間を占有することで、そこに住む若者は、家賃を稼ぐために働かなければならなくなるという「好子消失阻止の随伴性」に拘束されることになる。若者の労働は回り回って、結局はそのお年寄り自身へのサービス提供という形で還元されていくのである。

 農家と消費者の関係も同様である。農家の人たちは一生懸命働いて生産物を都会に供給する。しかし見方を変えれば、農家の人たちは、農地と生産手段を占有していると言えないこともない。もし、都会に住む人たちが一軒一軒広い土地を持っていて、家庭菜園だけで自給できる環境にあるならば、農家の人たちがいくら農産物を作っても、お金に換えることはできなくなってしまう。

 過去日記の繰り返しになるのでこのあたりで終わりとさせていただくが、とにかく、私有財産制のもとでの国家通貨というものは、人を働かせるツールとして機能する。しかし、地域通貨には、人を「好子消失阻止の随伴性」で動かすほどの力は無い。閉じたムラ社会であれば互酬は成り立つであろうが、これだけ人々の日々の移動、複数の集団間の入れ替わりがある現代では、きわめて限定的と言わざるを得ない。

 とはいえ、世の中、国家通貨では買えない大切なものもたくさんあり、ボランティア通貨のような地域通貨がそれらの交流を活性化する手段として活用される可能性はまだまだ残されているとは思う。また、今回、新宮市で紹介されたような、商品と交換可能な割引クーポン的な地域通貨も、環境問題への意識啓発や地域交流の手段として、一定の成果をもたらす可能性は残っていると思う。