じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 7月9日、本部棟屋上に岡山大学の旗が約1ヶ月ぶりに掲揚された。私の記録によれば、本部棟屋上に校旗(学旗)が掲げられるようになったのは2012年1月下旬であった(当時は紫紺色)。その後ライトブルーの色に取り替えられたりしていたが(5月21日の日記参照)、三笠宮寛仁さまの「斂葬(れんそう)の儀」が行われた6月14日に半旗が掲げらて以来、何も掲揚されていない日々が続いていた。なお、校旗(学旗)の左横に掲げられているのは、白地にコミュニケーションシンボルを染め抜いた旗であるようだ。このコミュニケーションシンボルはシンプルな点は良いのだが、遠くから見ると「ゼロ」の形にしか見えないという欠点がある。ちなみに、同じ「O」で始まる国立大学のうち、大阪大学は大阪の象徴である銀杏の葉を題材にした図柄となっており、大分大学は、「「OITA」と「UNIVERSITY」の頭文字「O」,「U」をモチーフに,躍動感あふれる2つの円でデザインした」学章(シンボルマーク)を制定している。「O」で始まる国立大学はこれ以外にも、小樽商科大学と帯広畜産大学があるが、「O」や「U」の文字を取り入れたマークは制定されていないようである。


7月9日(月)

【思ったこと】
_c0709(月)「おひとりさまの最期」講演会(2)「脱施設化」としての「在宅」

 7月7日の日記の続き。前回の日記の終わりのところで、私には、なぜ在宅でなければならないのか、という素朴な疑問があったと述べた。講演の順序から外れるが、このことから先に、メモと私なりの考えを記しておきたいと思う。

 まず、上野氏が唱える「在宅」は、必ずしも、何十年も住み慣れた家のことを意味しているわけではなさそうだ。じっさい、講演の中で上野氏は、リバース・モルゲージ(リバースモーゲッジ(Reverse mortgage)高齢者住宅住み替えを肯定的に紹介しておられたが、これらは長年住み慣れた家を離れることを前提としている。上野氏のいう「在宅」とはおそらく、「施設化」への対立概念、「脱施設化」と同義に用いられているのではないかと拝察した。

 では施設では何がイケナイのかということになるが、施設というのは、
  • 人間:集団性、画一性、効率性
  • 空間:孤立性、自己完結性
  • 時間:計画性、統制性、非限定性
という形で、建物と機能を一体化した閉鎖社会を形成する。こうした『出口の無い家』の典型が、監獄、収容所、そして高齢者施設であるという。(スライド資料による。長澤・伊藤・岡本(2007)の『建築地理学』が引用されていたが、引用元の記述については未確認。) 施設に入るということは日常から切り離されるということであり、どんなにアットホームな環境であってもそこは日常ではない。認知症高齢者が「ここは私の家では無いから帰ります」と訴えるのは当然のことである。

 さらに、施設志向が実は、当事者のニーズではなく家族ニーズを反映したものであること。施設でのパッケージ化されたケアでは、ケアの質を選べないこと。障がい者運動に学び、要介護高齢者の当事者運動として、「住まいとケアの分離=脱施設化」を目ざすべきだという背景があると理解した。

 さらに、在宅看取りのメリットとしては、
  1. 本人および家族の満足度が高い
  2. 終末期の過剰医療抑制
  3. 高齢者の貯蓄を自分自身の生活のQOL向上のために使ってもらうことによる内需拡大効果
などが挙げられるということであった(スライド資料による)。このうち2.に関しては、病院死の場合、お亡くなりになる前の1ヶ月間の平均的な医療費は140万円前後であるというような話があった。要するに病院に入院している限りは、(緩和ケアは別として)病院は、通常、できる限りの延命策を講じる。それは必ずしも本人の意思を反映したものとは言えない。

 というようなことで、在宅の意義はある程度理解できた。とはいえ、現実には在宅は無理というケースもあると思うし、施設でも、ダイバージョナルセラピーのような種々の取り組みを導入すれば、自宅で無為自閉的な日々を過ごすよりも意義ある生活を送れそうな気もする。

 次回に続く。