じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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§§ 文学部耐震改修工事一期分の竣工に伴い4月26日、運送業者さんにより、避難先の自然科学研究科棟から文学部の新研究室への物品の搬入作業が行われた。写真上2枚は廊下まで運び込まれた書庫、保管庫等。写真下は「心理データ解析室」内の様子。

9月24日以来、不便な環境(講義室や事務室から離れている、必要最低限の物品しか持ち込んでいない、自然科学研究科棟は眺めは良いのだが騒音がひどい、エアコンが壊れている、等)を強いられてきたが、これから定年退職までの5年11ヶ月は、新しい設備のもとで充実した教育・研究活動に専念することができそう。



4月26日(木)

【思ったこと】
_c0426(木)選択はどこまで重要か?(4)「行動的QOL」の概念(2)

 昨日の日記で、望月(2001)が提唱する「行動的QOL」のメリットについて述べた。しかし、そのいっぽうで、以下のような批判的議論もあるように思う。

 その第1は、前節の最後にも取り上げた「自己決定権」に関する問題である。具体的には
  1. 本当に権利なのか?
  2. 自己決定を正当化するためには、当事者に対して事前に十分な情報提供を行う必要があるのではないか?
  3. 自己決定は、当事者の将来に関わる長期的視点に立って行使される権利であって、望月(2001)や村上・望月(2007)で取り上げられているような、短時間内における選択肢の変更、否定、代替は、別の次元で議論されるべきものではないか?
といった疑問である。いずれにせよ、これらは、経験科学としての行動分析学とは別の次元で議論しなければならない。

 第2の問題は、選択機会を多様にすることが本当にQOLの向上につながるのかという問題である。すでに引用したように、望月(2001)では、第一レベルの行動的QOLは
(選択性はないが)正の強化を受ける行動が成立している段階

同じく第二レベルのQOLは
正の強化を受ける行動選択肢が存在し対象者が選択できる段階

さらに第三レベルのQOLでは、
既存の選択肢を本人が否定できたり、新たな選択肢を要求する機会がある段階

となっていた。その具体例として施設の食事場面が挙げられており、第一レベルはいわば定食メニュー、第二レベルは選択メニューがこれにあたるとされていた。また、これは原文には記されていなかったが、第三レベルであれば、例えば、和食を拒否して洋食に取り替えるとか、食事の時間、テーブルの配置などを取り替える要求ができることが該当するものと思われる。

 さらに別の例としてデイサービス利用者を考えてみると、
  • 単一のアクティビティしか用意されていない場合は第一のレベル
  • カラオケ、手工芸、麻雀、オセロ、パズル、...というように複数の行動機会が与えられていて利用者が自由に選択して遊べるようになっていれば第二レベル
  • 新たなゲームやアクティビティ(例えば屋外での園芸活動)を要求する機会があれば第三レベルのQOLの必要条件が揃っている
と言うことができる。

 しかし、そもそも、最初からお好みの定食が提供されていたり、熱中して楽しめるアクティビティがあってそれが実現できる状況が揃っているのであれば、それ以外の行動選択肢はあってもなくてもどうでもよいということになる。

 望月(2001)や村上・望月(2007)が対象としたような、最重度の知的障がい者、強度行動障がい者、アルツハイマー型認知症高齢者などの場合では、当該施設での対応改善のためにも、複数の選択肢から選んだり、デフォルトの選択肢を否定するといった行動を確実に形成することが重要な課題であることはもちろんであろう。しかし、高齢者一般のQOLを考える場合には、単に選択肢が多ければよいとは必ずしも言えない。『The Art of Choosing』(Iyengar, 2010)でも論じられているように、豊富な選択肢は必ずしも利益にはならず、また、自己選択は重要とはいえ、偶然や運命の関与も大きいことに留意しなければならない。

 複数の選択肢の設定という考え方は、集団で協力しながら1つのことを成し遂げるよりも、個々人がバラバラに好き勝手なことをするほうがよいということになりかねない可能性もある。いずれにせよ、1つの行動を長期間継続することがもたらすQOLは複数の選択肢や選択拒否権とは別に議論する必要がある。

 もう1つ、これは根幹に関わることであるが、そもそも、「自己決定権」は虚構ではないか?という議論がありうる。行動分析学的に言えば、複数の選択肢の1つを選ぶプロセスには「自由意志」が関与する余地は全く無い。AとBの選択肢のどちらを選ぶのかは、どちらがより強化されるか(あるいは強化されてきたか)によって決まる。スキナーが一貫して主張してきたように、我々には本質的な自由というものはない。選択場面において、それが正の強化で選ばれた時には「自由に選んだ」と感じ、負の強化や阻止の随伴性によって選ばれた時には「強制された」と感じるだけである。もっとも、当人に「自由に選んだ」と感じさせることができる限りにおいては、QOLの向上は十分に図られていると言えるかもしれない。

望月昭 (2001). 行動的QOL:「行動的健康」へのプロアクティブな援助. 行動医学研究, 7, 8-17.