じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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2011年版・岡山大学構内でお花見(6) 農学部・農場の梅に続いて、文学部周辺でも梅の花がほころび始めた。農学部の梅は金網の柵越しにしか見ることができないが、こちらのほうは間近で接写できる。

2月8日(火)

【思ったこと】
_b0208(火)行動主義の再構成(10)依存性の量的分析は可能か? (2)

 2月3日に続いて、

●依存性の量的分析は可能か?

について検討を加えていきたいと思う。

 実は私自身は、卒論研究の時、ハトを被験体として、青と赤それぞれの照明のもとで得られる餌の量の違いによって選択時間の比率がどう変わるかというような実験をやっていた。当時、私の所属していた研究会で紹介される論文は、8〜9割は、Journal of the Experimental Analysis of Behaviorに掲載されているものばかりであり、ちょうど、Edmund Fantino教授()が来学される時期にもあたっており、指導教授の勧めもあって、そうしたテーマを選んだのであった。
Fantino先生の講義では、当時ホットな話題であった「学習の生物的制約」に関する研究が多数紹介され、私自身は、実験的行動分析よりもそちらのほうに強い関心を持ってしまい、修論や博論では味覚嫌悪に関する実験研究に取り組むことになった。

 実験的行動分析のほうは最近は時たま雑誌を閲覧したり(そう言えば、かつて直接、雑誌購読の際に手紙のやりとりをさせていただいたKay Dinsmoorさんの追悼文が掲載されていた)、関西地区で年に数回開催される研究会に参加する程度で、すっかりご無沙汰している。この方面で次々と業績を重ねておられる研究者には頭が下がるが、率直なところ、私自身は、実際に得られたデータについて、関数の型を同定したり定数を適当に入れ替えることで、当てはめを行っていくというような研究には殆ど興味を持てなくなってしまった。

 量的な分析に興味を持てなくなったのは、いくらぴったり当てはまるような関数関係が見いだされたとしても、それは所詮、実験箱の中での「行動の予測と制御」に過ぎないということに限界を感じたためである。もちろん、主観的確率とか価値割引とか、それぞれ面白いテーマはあるのだが、そのことを人間の日常生活場面の分析にリンクさせようとすると非常に無理があるように思う。形式上は人間行動のシミュレーションであるが、意義づけや考察は、アナロジーの域を脱していないような気がしてならない。

 では、量的分析が全く要らないかと言えば、決してそんなことはない。

 量的分析で何よりも基本となるのは、

【1】増えていったか、変わらないか、減っていったか

という増減の把握である。増減というのは何らかの量的指標に基づいて測定しなければならない。

 次に必要な情報は、

【2】最初から増えたか、次第に増えていったのか(もしくは、最初から減ったか、次第に減っていったのか)

という増減のスピードの把握である。これは例えば、直接効果的な随伴性が働いているのか、ルール支配行動なのかを判別する際に重要である。入門書から事例を転用させていただくと、例えば、小学生の太郎くんに「新聞取ってきてちょうだい」と言えば、1回目からその行動は生じるようになる。しかし、ペットとして飼っている犬のタロウを相手に、ボールをくわえて持ってくるという行動をしつけようとしても、すぐには行動は起こらないというようなことだ。

 もう1つ、これは量的分析と質的分析のリンクということになるが、

【3】単なる反応数の増減だけでなく、一連の反応の質的変化にも注目せよ

という視点も必要である。例えば、ハトがキーを1回つついて餌を貰う場合と、10回連続してキーをつついて餌を貰う場合では、キーつつきという反応の形態的特性そのものが変化する可能性がある。コンピュータで記録された反応数ばかりでなく、実際のその反応を観察し、局所的な量的変化(キーを押す力、持続時間、累積反応のカーブ)にも目を向けなければならない。スキナー箱の中だけの世界であれば、行動を機能的に定義するだけでもそれほど支障はないだろうが、日常場面では、行動それ自体の質的変化にも目を向けなければならない。1ヶ月前、一週間前と比べて行動が増えた、減ったと捉えるだけでなく、その行動の中身自体がどう変化したのかも観察するべきである。また必要に応じて、行動を分類する際のカテゴリーも改変していかなければならないだろう。

 不定期で、次回に続く。