じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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2010年版・岡山大学構内の紅葉(9)一般教育棟北側のケヤキの黄葉

 ケヤキの黄葉の美しさは、その年の夏の気候や台風の有無によって変わる。今年はほぼ最高レベル。


11月10日(水)

【思ったこと】
_a1110(水)日本心理学会第74回大会(45)ことばと社会:心理学的アプローチの可能性と問題点(14)司法コミュニケーションにおける法と言語の接点の模索(1)裁判員制度と心理学研究

 3番目は、

●司法コミュニケーションにおける法と言語の接点の模索

というタイトルの話題提供であった。目的は、司法コミュニケーションにおける心理学の諸理論と語用論の理論の接点を探ることであり、より具体的には、裁判員が裁判官の言動によってどのような影響を受けるかについて、影響を受ける言語行為を特定したりその原因を考察すること、さらには裁判員裁判での評議の談話構造の携帯の特殊性を考察するという内容であった。

 ここで少々脱線するが、こちらの連載に記したように、私自身は、裁判員制度には断固反対である。ただし、心理学の領域では、この制度が導入されたことで、裁判員制度に関連した諸問題を取り扱った卒論、修論、博論、さらには一般の学術論文が数多く発表されるようになり、その方面の専門家の数が増えてきたことは事実である。よく言えば、とにかく、裁判員制度が、心理学に新たな研究テーマを与え、心理学の研究を活性化していることは事実である。悪く言えば、裁判員制度が、もし「百害あって一利なし」ではなく「百害あるが一利あり」であるとするなら、裁判員制度が導入されたことによって、それをテーマとした論文が書けるようになり、法曹界や心理学者の業績を増やし彼らの地位向上に貢献したという点が唯一の「一利」であると言えないこともない。さらに、裁判員に命じられた人が、残虐な犯行場面の写真を見たり死刑判決に関わったりするなど、善良で平穏な生活をしていれば決して関わることの無かった場面に直面させられることで深い心の傷を負うことになれば、それをケアしなければならないというニーズが生まれ、新たな雇用の創出になるかもしれないという「一利」もあるかもしれない。

 いずれにせよ、裁判員制度に関する心理学研究は、次の2つのタイプに分けられるのではないかと思う。
  1. 裁判員制度があるという前提のもとで、その制度内で生じる様々な心理学的問題を研究するタイプ。裁判員制度が廃止されればほとんど意義を失う研究。
  2. いちおう裁判員制度に関連する枠内で研究を進めるが、研究の成果はさらに一般化が可能であり、仮に裁判員制度が廃止されたとしても、人間行動一般の研究としては引き続き意義を保ちつづける研究。
 これは、将棋に喩えれば以下のようになる。すなわち、将棋の特定の戦法は、将棋のルール(それぞれのコマの動き、コマの配置など)の枠内でしか通用しない。仮に将棋のルールが変更されれば、過去に有効とされていた戦法はその意義を失う。また、将棋の戦法が純粋数学の定理に結びつく可能性はきわめて少ない。娯楽として将棋を楽しむファンが居なくなれば、その戦法も次第に忘れられていくであろう。上記の1.のタイプもこれと同じ運命にある。

 いっぽう、例えば羽生名人が語る言葉の中には、将棋という閉じたシステムの枠を超えた一般性のある教訓が含まれている。上記2.のようなタイプの研究はそういう可能性を持っている。

 但し、念のためお断りしておくが、私は別に1.のタイプがダメで2.がよいと言っているわけではない。日常世界には、いま現在に固有のシステムがあり、我々はその中で強い影響を受けて生きていかなければならない。将来的には消滅する問題であっても、喫緊の課題として重要であればぜひとも取り組まなければならないし、その取り組みには普遍的な価値があると思っている。

次回に続く。