じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 10日ほど前から、時計台前の芝地の改修工事が行われている。現場の看板には
  • インターロッキング舗装 約200平米
  • 高木植栽 4本
  • 芝張り 約300平米
  • その他縁石など 一式
と記されていた。

 土砂が飛び跳ねるのを防ぐためだろうか、黒正巌先生も包まれてしまった。


2月20日(土)

【思ったこと】
_a0220(土)[一般]オリンピックは、個人を応援するのか、国を応援するのか(4)じぶんと同じ国の選手を応援したがる心理

 昨日の日記で、3つの疑問:
  1. 国どうしで競い合うことにはどういう意義があるのか、ないのか。
  2. 国どうしで競い合うことの弊害は無いのか。
  3. なぜじぶんと同じ国の選手を応援したがるのか。
のうちの1番目を考察した。まだ書き残した点はあるが、議論の都合上、先に3.について考えてみたいと思う。

 私の仮説は、
  1. じぶんの国の選手を応援したがるのは、別段、愛国心の強さを示すわけではない。単に、仲間内を応援することによって何らかの連帯感を感じ取るため、もしくは自分と共通性を見出すことによって感情移入し、より多くの感動を得ようとするだけである。
  2. もちろん、「愛国心」という概念自体、上記1.を部分的に含むので、その意味では、愛国心の強さの一要素にはなっているかもしれない。しかし、少なくとも、「自己犠牲をいとわない忠誠心」のようなものは含まれていないだろう。
  3. 「じぶんと同じ国」というのは、その人が所属する集団として意味をなしている。そういう意味では、「出身がじぶんと同じ都道府県」、「出身がじぶんと同じ市町村」、「出身がじぶんと同じ学校」、「じぶんと同じ会社」、「性別がじぶんと同じ」、「身体的特徴がじぶんとよく似ている」、「じぶんと同じ世代」、「じぶんと同じプロ野球球団のファン」などでも、同じように機能するはずだ。
  4. 人は誰でも多種多様な「じぶんと同じ集団」という集合に所属しており、それらの集合は重なり合ったり、包含関係にあったりする。
    • 複数の集団の中では、いちばん所属意識(=客観的に言えば「関わりの強さ」)の強い集団内の仲間をひいきするのが一般的。
    • 複数の集団で、関わりが同程度である場合は、サイズが小さい(構成員が少ない)集団内の仲間をひいきしやすい。
  5. 何の組織性を持たない集団、というか同一カテゴリーに分類されているに過ぎないような場合であっても、連帯感を感じることはありうる。


 そういえば、各種ネットニュースや、アンテナ経由で拝読しているWeb日記の中で、男子フィギュア高橋大輔選手の銅メダル獲得をめぐって興味深い特徴があった。

 まず、一般的な声としては、「フィギュアスケートで日本男子初」を称える声がある。この場合は、「同じ国の選手」もしくは「同じ日本人」としての喜びを表明していると言える。

 ところが、ローカル放送や岡山出身者のブログなどを拝見すると、「日本人としての喜び」よりはむしろ、岡山県出身者、さらには、もっと狭く、倉敷市民として喜んでおられる方々も少なくないことに気づく。

 また、高橋選手が通う関西大学からは、応援団リーダー部団長と前団長が袴姿で駆けつけ、入場口の外でとエールを送った。こちらの方面では、「関大魂を世界に見せつけてくれた」と称賛する声が多い。




 個人やチームを応援するという行動は、じぶんと応援対象との間に、同じ集団に属するという仲間意識、あるいはじぶんとの間に何らかの共通性があった場合に限って強化される行動であるかもしれない。祖先のサルの時代から群れで行動していたせいだろうか、我々は、明らかに同じ集団に属している時にはその仲間を応援するであろうし、そうでない場合も、出身県や国、民族といった属性に基づいて、「仲間」を応援しようとする。さらに言えば、
  • 人間とライオンが戦っている時には、人間を応援
  • チンパンジーとライオンが戦っている時には、じぶんと同じ霊長類であるチンパンジーを応援
  • ライオンと大蛇が戦っている時には、じぶんと同じほ乳類であるライオンを応援
  • 大蛇と宇宙人が戦っている時には、同じ地球生物に属する大蛇を応援
するかもしれない。

 かくいう私も、かつて、私と同じ身長の清水選手が金メダルを獲得した時には、大喜びしたことがあった。じぶんの「仲間」を応援したというよりも、じぶんとの共通部分を見出して、自分自身を褒めていただけなのかもしれないが...。

次回に続く。