じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 旧暦の元日(2月14日)から5日目となり、西の空の月が目立つようになってきた。この季節は、上弦の月に向かって月の赤緯が北に偏るため、横に寝たお皿のような月を眺めることができる。なお、前景の建物は、岡大の一般教育棟(旧・教養部)。耐震改修工事が完了し、快適な勉学環境が整備されている。


2月19日(金)

【思ったこと】
_a0219(金)[一般]オリンピックは、個人を応援するのか、国を応援するのか(3)国どうしで競い合うことにはどういう意義があるのか、ないのか

 今回は、連載1回目で提起した3つの疑問:
  1. 国どうしで競い合うことにはどういう意義があるのか、ないのか。
  2. 国どうしで競い合うことの弊害は無いのか。
  3. なぜじぶんと同じ国の選手を応援したがるのか。
のうち1番目について考えてみることにしたい。

 なお、「連載1回目では、「現行のオリンピックは、国のあいだの競い合いである」と述べたところであるが、連載2回目で引用したように、オリンピック憲章では本来、「オリンピック競技大会は、個人種目もしくは団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」とされており、現状とはかなり食い違っているように見える。このあたり矛盾について、公式にはどういう解釈や合意がなされているのかについては、時間が無いので調べる余裕が無かった。オリンピック憲章に関しては、だいぶ前には、アマチュアリズムに関する議論があったと記憶している。「白い恋人たち」で有名なグルノーブル五輪では、キリーのアマチュア規定違反問題などが議論になったように記憶しているが、いまの時代ではプロが招請されている種目も少なくない。

 さて、もとの

●国どうしで競い合うことにはどういう意義があるのか、ないのか。

という疑問であるが、「意義がある」と答えるのはおそらく、メダルの獲得数を競うことで国威発揚をめざすと考えている人々に限られているのではないかと思う。かつての東ドイツなどもそうだが、一部の国では、いまだに、スポーツが自国の政治体制の優位性や指導者の偉大さを誇示するための宣伝に利用されているように思える。

 しかし、今の時代、先進国であればあるほど、国威発揚のためにオリンピックを利用しようという政治家はそれほど多くないのでは、という気もする。スポーツ選手を国の代表として派遣するというのは、「政治がスポーツを利用する」というよりはむしろ、(そのことを意図しているかどうか、良いか悪いかは)別として、「スポーツが政治を利用する」という形になっているように思える。

 要するに、スポーツというのは農業や製造業ではないので、選手たちだけで自給自足の生活をすることはできない。人気スポーツであれば観客の入場料収入だけでも成り立つが、多くの場合は、選手育成や派遣には国からの援助が必要である。しかし、選手個人単位の競技では、国としても税金を使うわけにはいくまい。しかし、「国の代表」という形をとれば、予算も配分しやすくなるし、世論も納得する。「他の国がこんなにメダルを取っているのに、日本はこれでよいのか、もっとスポーツ関係予算を増額して選手の強化に力を入れるべきである」という主張は、行動分析学で言うところの「好子消失阻止の随伴性」に裏打ちされており、意見として通りやすい。




 国どうしの競い合いとすることで、NHKなどでも番組として取り上げやすくなる。このWeb日記で私自身もたびたび批判してきたが、米国の大リーグの中継などは、公共放送を標榜し受信料を取り立てているNHKにはふさわしくない番組であると思う。それ以外のスポーツでも、個人として出場している競技では、特定個人に偏重した扱いは慎むべきであろうと思う。しかし、オリンピックの選手たちが国の代表として扱われる限りにおいては、国会中継と同じレベルで番組枠を優先させたとしてもあまり苦情が出ることはあるまい。

 NHKに加えて、民放各局が「国の代表」として大々的に取り上げれば、視聴者の関心もそれだけ高まり、結果的に、視聴率アップ、スポンサーのCMとの相乗効果も見込まれる。

 けっきょくのところ、いまのオリンピックは、巨大なビジネスチャンスとしてどう成功させるかという方向で変貌を遂げていったことは否めない。

 なお、「国の代表」と位置づけることでなぜ人気が高まるのか、このこととは「愛国心」と関係があるのかどうか、については次々回以降で考察する予定である。

次回に続く。