じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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§§ 今年はネコ年(7)丸々と太ったネコ

 数年以上前から時折見かけるが、近づくとスタコラ逃げてしまうので、接写は難しい。このネコの特徴は何と言っても太っていることだ。あまりにも太りすぎて背中に手足が届かないのだろうか、仰向けになって背中を掻いていることがある(写真下の2枚)。



1月7日(木)

【思ったこと】
_a0107(木)[心理]すべてを動詞で表すことの意義

 昨日の日記で、動画と写真(=静止画像)の違いについて思ったことを述べたが、動画と写真の違いというのは、ある意味では「動詞で表現すること」と「名詞で表現すること」にも対応しているように思う。動画では動詞も名詞も表現できるが、写真で動詞を表現することはなかなか難しい。例えば「歩く」という動詞は、動画ならば簡単に表現できる。しかし、歩いている人の写真というのは、本当にその人が歩いているのか、それとも、「だるまさんが転んだ」のゲームの途中で、歩いている途中で動作を止めているのかは見分けがつかない。また、「笑う」とか「泣く」という動詞は動画なら簡単に表現できるが、一枚の写真だけでは、笑っているのか泣いているのか、どっちにもとれる表情というのもある。

 「動詞で表す」ということについては、一昨年12月、JT生命誌研究館の中村桂子館長が日本園芸療法学会第1回大会で基調講演をされた時にその意義を教えていただいたことがあった。少々長くなるが、こちらのコンテンツの中で、中村館長は以下のように論じておられた。
...実は最近考えていることの一つに“動詞で考える”ということがあるのです。昨年書いた「ゲノムが語る生命」(集英社文庫)も章立てをすべて動詞にしましたし、季刊「生命誌」でも「愛ずる」「語る」「観る」というように動詞を年間のテーマにしてきました。その理由は、動詞にすることで、物事をていねいに扱うことができるのではないかと考えたからです。
 たとえば、「生命」という言葉、「21世紀は生命科学の時代」だとか「子どもたちに生命の大切さを教えよう」など、重要なこととしてしばしば眼にし、耳にします。けれどもここで言われている「生命」はどのようなものかということがはっきりしません。物事を考える時は、「何」が「どのように」ということが大事です。「何」ということだけを名詞でポンと投げ出すと、それはすでにわかっていることのように受けとめられてしまい、詳細に考えることをせずにすませがちになります。けれども実は、「生命」という聞きなれた言葉も、生命がある状態、具体的にはさまざまな生きものが生きているという状態をよく見ることによって、さまざまな様相で見えてきます。もちろん、生きものの中には人間も含まれるわけですから、さまざまな人がそれぞれの生き方をしているところに「生命」があるわけです。生命科学とか生命を大切にとかいう言葉だけで動いていると、実は「生きている」も「生きる」も見えないまま、勝手な思惑で事が進み、結局生きにくい状況を作ることになりかねないのです。現行の「生命科学」の中には、そのような気配が見えます。今流行の「改革」もそうです。これだけを放り出さずに、どのようにということをていねいに説明しなければいけないでしょう。動詞で考えるということは、別の表現をするなら、日常を対象にすること、生活世界を考えるということだと思っています。

 そういえば、アンテナ経由で拝読している某市長のブログ(12/24)の中で、「生と死」あるいは、漢字の「命」とひらがなの「いのち」の違いについて語られていたが、「生」、「死」、「命」、「いのち」というように名詞で語られている限りにおいては対象をていねいに扱うことはできない。某市長にはぜひとも「生きる」という動詞について語ってもらいたいものである。

 しばしば「英語は名詞、日本語は動詞」と言われるように、日本語はまことにすぐれた動詞表現を持った言葉である。8年ほど前に書いたこちらの小論の中で岩谷宏氏や金谷武洋氏の指摘を引用したように、日本語には、
  • 「日本語はコト、英語はモノ」
  • 英語の「自動詞/他動詞」と異なり、日本語の動詞は、(1)受身/自発/可能/尊敬(2)自動詞(3)自or他動詞(4)他動詞(5)使役という5つの連続体から構成される
という特徴があり、その分、動詞表現が多彩となっている。であるからして、少なくとも、日本人が日本語で議論する限りにおいては、対象とする概念も、議論の筋道もできうる限り動詞的に表現したほうが、より創造的で生産的な議論に発展できる可能性がある。新年度に向けた予算論議などでも、さまざまな施策を動詞的に表現すればもっと具体的で心の通ったものになるはずだ。