じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 2009年版・岡山大学構内の紅葉(23)月明かりに照らされる黄金色の絨毯

 農学部東西通りのイチョウの葉っぱの絨毯。土日は車が通行できず、また落ち葉を掃くこともないので、黄金色の絨毯を眺めることができる。なお、撮影時の月齢は18.7。



12月5日(土)

【ちょっと思ったこと】

「子ども店長」やはり見覚えなし

 12月1日の日記で、2009年流行語大賞(正式には「ユーキャン新語・流行語大賞」)のTop10のうち、「こども店長」、「ファストファッション」、「歴女」の3語は、全く知らないし、聞いたことは一度もないと書いた。ネットで調べたところ、このうちの「子ども店長」はテレビのCMであるというが、全く見覚えがない。妻にそのことを尋ねたところ、某番組の中で、赤い服を着た子どもがなにやらしゃべっているようなCMが放送されていることが分かった。その後も一度、ゴルフの石川遼選手が登場するCMを見かけたことがあったが、どちらも、注意しながら見ていてやっと見つけた程度で、過去に見たという記憶は全くなかった。

 ま、私の場合、そもそもテレビはあまり視ないし、視る番組のジャンルも限られているのでCMに影響を受けることは殆ど無い。ウィキペディアによれば、「子ども店長」を演じている加藤清史郎はNHK大河ドラマの『天地人』に出演したそうだが、そもそも『天地人』は一度も観ていないので普通の男の子にしか見えない。その分、CMへの注目度が低かったとも考えられる。

【思ったこと】
_91205(土)[心理]パーソナリティーの時間的変容を捉える試み−対話性と自己からの検討−(4)

 12月1日の日記で、
  • 「変数の束」をいくら連ねたとしても、白鵬や高見盛の個性に迫ることはできない。
  • 平均値からの距離や、相対的比較をいくら精密化したとしても個性や本質に迫ることはできない。
というような考え方があると述べた(←上記はあくまで、対立軸を明確にするために掲げた作業仮説であって、今回の話題提供者のどなたかがそのように主張したというわけではない)。

 私は、このような考え方にはかなりの程度で賛成である。卒論・修論では尺度やパス解析を扱った研究も多いのでそういう立場を認めた上でアドバイスを行うことにはしているが、私自身は、そのような方法にはあまり興味が持てない。個人本位、全人的な視点で取り組んでいきたいとは思っている。

 もっとも、平均値や比較にもそれなりの意義はある。健康診断の時にはいつでも、標準値や「正常」範囲との比較によるスクリーニングが行われる。平均値イコール正常という過信は禁物であるけれども、やはり、逸脱した数値があった場合には、何らかの精密検査を行ったほうがお得であるとは言える。また、限られた資源(予算など)を配分するにあたっては、やはり費用対効果に配慮せざるを得ず、集団全体の傾向や分布に配慮することは必要になってくるとは思う。

 また、いくら個性を重視するといっても、それらは何らかの言語や測定によって表現されなければならない。それぞれの個性を表現する言葉が、その人の中だけでしか通用しないのであればコミュニケーションは成り立たない。質問紙や面接で調査する限りにおいては、質問者と回答者、さらにその研究成果を利用しようとする人たちのあいだで、共通に理解されている言葉が無ければ学問としては成り立たないであろう。

 統制群主義のような比較優位に問題があることは理解できるが、だからといって、他者との比較なしに個性を記述できるかとは思えない。そもそもコミュニケーションというのは、一定の共通体験を持った人々のあいだで、共通の操作対象があり、同じか違うかという比較があり、さらに程度の比較というものがあってこそ、成り立つものである。

 例えば、地球とはどんなものかと訊かれた時に、「ボールのような形をしていて平均半径は6371km」だと答えたとする。この場合「ボールのような形」というのは「ボール」という存在との比較であり、また6371kmという長さは、地球一周の長さを基準にもとに考案された単位に由来している。純粋数学の基本概念にしたところで、日常の事物や概念から極度に抽象化、拡張されたものであって、日常世界と全く無縁とは言えない。

 今まで一度も見たことがない物体に遭遇した人は、多くの人がすでに見たことのある物体と比較して、未知との遭遇の様子を報告しようとするだろう。何物とも比較できない物体や体験があったとしたら、それは「今まで見たことも無いものに出合った」という以外に、具体的情報をつけて報告することができないはずだ。

 不定期ながら次回に続く。