じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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2009年版・岡山大学構内の紅葉(7)東西通りのケヤキの黄葉

 大学構内各所で、ケヤキの黄葉が見頃となってきた。黄葉と言っても、樹によって黄色から褐色系まで色合いが異なる。



11月6日(金)

【思ったこと】
_91106(金)[心理]ガーゲン先生ご夫妻講演会(7)ケネス・ガーゲン先生の講演(3)

 通常、学会年次大会や講演会の感想は2週間以内に執筆を完了することを原則としていたのだが、ガーゲン先生ご夫妻の講演会が行われたのは10月12日以降、某申請書の作成や各種雑務が重なって、連載がのびのびになってしまった。いちおう、今回をもって最終回にしたいと思う。

 ケネス・ガーゲン先生の講演の後半では、モダニズムからポストモダニズム、さらに社会構成主義への転回が3つの視点という形で語られた。現在でも機械のメタファは支配的であり、それを転回させるには、アンチ精神医学、「カルチュラル・スタディーズ」、言語という観点での理解が必要であるというお話であった。演台にあったお茶のペットボトルを手に取って、その扱いが、物理学者や化学者や一般人で異なるというようなお話もされていた。

 このあたりの部分について感想を述べさせていただくと、外界の諸事物は我々の意識とは独立に存在するものではあるが、いったんそれを分類し、同一性の基準を作り、なにがしかの概念として利用する段階になれば、それらはすべて社会的にに構成されたものとならざるを得ないことは確かだと思う。またその事物や、それを呼ぶ言葉がどう使用されるのかは言語コミュニティやその人の属する文化によって多種多様となるであろう。

 もっとも、そもそも、言語というのは、言語コミュニティの相互強化の中で形成、維持されていくものであり、個々人が全く独立してバラバラというわけではない。個々人の多様性の中にもある程度の共通性があり、さらに異文化と言われる中にも、地球環境のもとで共通に使用される限定的普遍性なるものが存在しているはずである。上述のペットボトル論議においても、山登りの途中で喉が渇いた人たちのあいだで交わされるペットボトルには同一性があるし、新たな素材を開発する化学者の間でも共通の認識があるわけで、ことさらに差違を強調しなくてもよい場面のほうがむしろ多い。そういう意味では、環境内での操作や働きかけの客観性を基に行動の科学を打ち立てること、つまり行動分析学的な視点で世界を見つめるということも、決して不可能ではないと思う。

 文化の問題も、つきつめれば、ある集団内での特定の行動様式の伝播・伝承、それを継続させる環境要因、個々の行動の結果の累積的な結果がもたらす達成、行動間の相互強化などによって形成されていくものであろう。行動の原理を抜きにして異文化に取り組んでも限界があるのではないかと思っている。

 講演の最後のほうでは、過去の出来事についてのナラティブよりも、未来志向型が重要であるというようなお話があった。過去の出来事をすべて整理し、総括し、その延長上に将来を位置づけるというやり方は、いま現在の自分やこれから先のことを考える際の重要なヒントにはなるだろうが、それをしなければ先に進めないというわけではない。もちろん、犯罪者は過去の罪を償わなければならないし、犯罪とは言えないまでも、周りの人たちに悪い影響を及ぼしたことがあればしっかりと責任をとる必要はあるだろうが、過度に後悔をしたり、過去からの一貫性にこだわる必要は無いと思う。ま、ガーゲン先生のお考え自体も、そういう形で、無固定に前進してきたところがあるし、私自身もしかりであった。

 ということではなはだ不完全ではあるが、今回の講演会の感想は、これをもって最終回とさせていただく。