じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 2009年版・岡山大学構内でお花見(72)時計台前の彼岸花とゴマダラチョウ
9月28日(月)に見かけた時計台前のヒガンバナとゴマダラチョウ。時計台前のヒガンバナは定点観察対象であり、昨年の写真が2008年9月24日の日記にある。旅行中のため撮影日が遅れてしまったが、花が散る前に何とか間に合った。下の写真はゴマダラチョウ。2009年8月5日の楽天版にも目撃情報あり。


9月28日(月)

【思ったこと】
_90928(月)[心理]胃カメラの検査結果に動じない「肝っ玉」はどうすれば作れるか(4)

 9月22日の日記で、
この種の動揺・混乱を避ける唯一の方法は、「努力の積み重ね→累積的結果→最終結果の達成」というような単線的なプランを軌道修正することである。さまざまなリスクを想定しつつ、どういう結果が起こってもそれなりに得ることがあるというようなプランに仕立てておけば混乱は少ない。
と述べ、山登りで雨に降られた場合の例を挙げた。

 要するに、充実感が得られるような行動のリパートリーを多種多彩に備えていれば、身体の一部が故障したり健康状態に変化があったとしても、残された力で強化されることが可能であるような代替の行動リパートリーにチェンジすれば、動揺や絶望状態に陥る可能性を減らすことができる。

 仮にある人が、山登りと写真と映画鑑賞と音楽鑑賞に興味を持っていたとする。足腰を痛めて山登りができなくなった時には、机に座ってデジカメ写真の整理に明け暮れてもよい。パソコンの操作が困難になって写真整理ができなくなった時には、ソファに座って映画を観ればよい。目が疲れたり見えにくくなっても音楽を楽しむことはできる。人間はもともと、同じ時間帯には1つのことにしか熱中できない。「やり残したことはたくさんある」というのは当たり前であって、何かができなくなってもまだまだ別にできることがあるはずだ。ということもあり、生きがいの対象や趣味は、単線・熱中型ではなく、できるだけ幅広く持ちたいものである。




 どういう行動がその人の生きがいになるのかは、行動の結果をどう意義づけるのかによって変わってくる。行動の結果の及ぶ範囲をその人自身の内部に置くならば自己実現型となるし、家族を重視するのであれば家庭内貢献型となる。さらに、地域貢献型や、地球規模の問題解決のために献身的に働き続けようという人もおられる。社会全体としては、個人主義型よりは、社会全体のために尽くす行動のほうが望ましいので、そういう献身的行為を推奨し賞賛するための強化システムが用意されている(さまざまな表彰制度、感謝状、銅像建立などなど)。社会や組織がそのようなシステムを構築することは当然であるが、だからといって個人主義が悪いというわけではない。健康な若者の場合は社会貢献が望ましいと言えるが、高齢になったり健康を損ねた人の場合には、それでもなお社会貢献に意義を見いだそうとする道を選んでも、個人主義的な趣味や遊びの領域に熱中する道を選んでも、それは完全に自由である。

 自分の余生にある程度の長期的見通しを描ける人は、社会貢献への計画的参加を志向してもよいし、個人主義的な自己実現プランを立てることもできる。しかし、余命いくばくもなく、累積的な結果が期待できなくなった人は、その日1日だけでできるようなことで、社会に何らかの役に立つこと、例えば、自分の体験を後世に伝えるために何かに記すとか、募金の呼びかけを発信するといった行動に意義を見いだすことになるかもしれない。

 私自身は宗教を信じていないのであるいは誤解があるかもしれないが、「世界平和や人類の幸福のためにひたすら祈る」というような行動は、その人自身にとっては、私利私欲を排して世界全体のために奉仕しているというように意義づけられているかもしれない。しかし、傍目から客観的に見れば、そういう人たちのやっていることは、じつは世の中には何も貢献していない自己満足的な行為であり、けっきょくな個人主義の範疇に分類するべきであると考えることもできる。ま、それもまた、別段咎められるようなものではない。周囲に迷惑が及ぶのでなければ、洞窟に籠もってひたすらお祈りをしながら人生を終えるというのもアリだとは思う。




 では行動のレパートリーを多種多彩に備えていればそれだけで不安は解消できるのだろうか? 実際にはまだまだ問題は残っているように思える。

 上述に加えてさらに必要であると私が思うのは、
  • 自分自身の老いや病についての受容
  • 他者との比較をしないこと
  • 周囲も、その人の老いや病や死を肯定的に受け止めること
といった点である。

 次回に続く。