じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 2009年版・岡山大学構内でお花見(70)白花のヒガンバナも見頃。

 昨年の写真(紅白両方)が2008年9月23日の日記にあり。白花(白花曼珠沙華の一種)のほうは、昨年よりいくぶん勢いが衰えているようだ。このあたりは表土が流れやすいので、有機質の土をかぶせておこうと思う。

 なお、一昨年の10月3日の日記に、花芽がニョキニョキと伸びていく定点観察写真あり。


9月22日(火)

【思ったこと】
_90922(火)[心理]胃カメラの検査結果に動じない「肝っ玉」はどうすれば作れるか(3)

 健康診断の結果で、癌など、治りにくい病気が疑われた時に動揺し、落ち込んでしまう原因としては、すでに挙げた3つの理由のほかに、

●「死の可能性」を指摘されてしまうと、中長期的展望のもとで実践していた準備的な行動(積み重ねのあとで初めて結果が得られるような行動)が強化されにくくなり、日常生活の意味づけがうまくできなくなる。

という4番目の理由があるのではないかということを昨日の日記で指摘した。

 日常生活の諸行動は直後の結果だけで断片的に強化されているわけではない。その日暮らしの動物たちと違って、我々は普通、1年先、5年先、10年先、...というような中長期的プランをいだきながら生活している。単純作業で飽き飽きするような作業であってもそれが、累積的結果として意味をなし、将来の何らかの目標を達成できる可能性をもたらしているのであればそれは十分に強化的である。それは、

●将来を展望することで、現在の日常生活を意味づける

というようにも表現できるし、行動分析学的には、「○○という行動を積み重ねれば、□□という最終結果が得られる」というようなルール支配行動(ルール制御行動)であると言うこともできる。この場合、最終的結果への到達度を観察・記録するという新たな行動が付帯し、順調に到達しているという事実自体が1つの好子になる一方、また、計画通りに実践が伴っていない場合には、計画と到達との不一致自体が嫌悪的となり、それを回避しようとして頑張る、という嫌子出現阻止(もしくは好子消失阻止)の随伴性による強化がはたらくようになる。




 例えば、毎日の筋肉トレーニングは、それがいかに単純作業の繰り返しであったとしても、一年後に富士山に登ろうと計画している人にとっては意味のある行動である。トレーニングの遂行は、一年後の目標達成の手段として間接効果的に強化されている(「意味づけされている」)と言えよう。

 日々ダイエットに励んでいる人の場合も、その効果が直ちに現れるわけではない。しかしそれを継続することでメタボが回避され、老後の健康が約束されるというのであれば、多少辛くても努力を重ねるであろう。

 ところが、ある日、健康診断の結果で重大な異状が指摘されたとする。もしそれが、3か月後に死亡というような深刻な予期を伴うものであったとするとと、一年後の山登りや老後の健康といった最終的結果が実現できる可能性はたちまちゼロになってしまう。ゼロになるということは、現在の日常生活諸行動への強化機能も失われるということであり、とうぜん、「何をしても無駄だ」と投げやりで無気力状態に陥ってしまう。

 ではどうすればよいのか。この種の動揺・混乱を避ける唯一の方法は、「努力の積み重ね→累積的結果→最終結果の達成」というような単線的なプランを軌道修正することである。さまざまなリスクを想定しつつ、どういう結果が起こってもそれなりに得ることがあるというようなプランに仕立てておけば混乱は少ない。

 山登りを例にとると、「頑張って登れば頂上に達する」というような単線的なプランでは、途中で雨に降られて登頂を断念せざるを得なくなった時には、その登山自体が意味にないものになってしまう。しかし、雨に降られた時には麓のお花畑を散策するというような別のコースを設定しておけば、晴れていても雨になってもどちらでも最終結果(登山、または、お花畑)が満たされるという次第である。

 不定期ながら次回に続く。