じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 2009年版・岡山大学構内でお花見(69)ヒガンバナ見頃。昨年に比べると、開花の時期が少し遅い。お彼岸に見頃になるというのはさすが「彼岸花」。


9月21日(月)

【思ったこと】
_90921(月)[心理]胃カメラの検査結果に動じない「肝っ玉」はどうすれば作れるか(2)

 9月18日の日記の続き。前回の日記では、健康診断の結果で、癌など、治りにくい病気が疑われた時に動揺し、落ち込んでしまう原因を3つ挙げた。いずれも「死ぬのはイヤだ」が根底にあり、
  1. どういう死に方をしても、死の直前に苦しまなければならないということ。
  2. 我々は、死を避けようとする遺伝子が組み込まれ、結果として地球上に生き残った生物である。
  3. 死は、その人自身や周囲との関係、その人の社会的役割などをすべて失わせてしまう。
検査結果の通知によって、そういうネガティブな可能性を予期することが精神的な動揺や混乱をもたらすのではないかという考えである。

 しかし、上記の3つの理由はまだまだツッコミの余地がある。

 まず、1.に関しては、麻酔などの措置によって、かなりの程度まで苦痛を軽減することができる。それと、死ぬ間際に苦しいと感じるのは、もっと生きよう抵抗する力の現れであって、死を覚悟した後にはそれほどもはや苦しみは無く、恍惚状態に陥ってしまう可能性がある。サバンナでライオンに食い殺されるシマウマなども、最初のうちは苦しそうに抵抗するが、もはや逃れられない状況となった後は、むしろ自らの肉体を食料として捧げることに喜びを感じているようにも見える。

 2.に関しては、確かに、子どもや若者では、死を避けようという生得的傾向が組み込まれていることは合理的であると思う。しかし、年老いて、生殖能力を失い、集団の中で特定の役割を果たすことができなくなった個体において、それでもなお死を避けようという力が遺伝的に組み込まれたままになっているのかどうかは甚だ疑問である(←これはあくまで、遺伝的特性に関する話。人間の尊厳を否定しているわけでは決してない)。産卵のために遡上するサケや、夏の終わりまで精一杯鳴き続けるセミたち、あるいは秋の虫などみんなそうだが、それぞれ、役割を終えた後にはもはやじたばたしない。人間の目からは「子孫を残すために自らを犠牲にしている」ようにも見えるが、彼らにとっては別段「犠牲」でも何でもなくて、単に、したいからそうして、プログラムされた通りに燃料を使い果たしているだけかもしれない。

 3.に関しては、死によって、生きている人たちとの関係が断ち切られることは確かである。しかし、それはあくまで、生きている人たちだけを対象に関係性を捉えるからそうなるのである。その人の生涯全体というスケールで他者との関係を考えた時には、自分より先にこの世を去った人たちもたくさんいる。歳をとればとるほどその比率は増し、仮に120歳まで長生きして世界最高齢者になった時点では、自分より先に生まれた人たちとの(現実世界での)関係はすべて失われてしまうことが論理的に必然となってしまう。

 というように考えていくと、当初挙げた3つの理由は、それほど重大ではなく、また、固定的に考えるべきでもないということに気づく。前回の日記の最後のところにも述べたが、これらに代わる決定的な理由はおそらく

●「死の可能性」を指摘されてしまうと、中長期的展望のもとで実践していた準備的な行動(積み重ねのあとで初めて結果が得られるような行動)が強化されにくくなり、日常生活の意味づけがうまくできなくなる。

ことにあるのではないかと考えている。

 不定期ながら次回に続く。