じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 モニュメントバレーのホテル前に展示されていたナバホ族の伝統的住居(ホーガン)。現在でも、お年寄りの住む家では、住宅敷地の一角にホーガンが造られていることがある。インディアンの住居というと、ピーターパンのアニメなどに出てくる背の高いテントを連想してしまうが、実際にはこういう家で暮らしていた先住民も少なくなかったようだ。


9月18日(金)

【思ったこと】
_90918(金)[心理]胃カメラの検査結果に動じない「肝っ玉」はどうすれば作れるか(1)

 9月14日の日記に記したように、今年度の胃バリウム検査では、「胃潰瘍の疑いあり、要精密検査」という判定が出た。その後、内視鏡検査(胃カメラ)で特段の異状が無いことが分かりホッとしたところであるが、このかん、かなり取り乱してしまって、我ながらまだまだ覚悟が足りないことを痛感した次第である。

 私自身が胃の検査結果に過敏に反応してしまう理由の1つは、母親が60歳の若さで胃がんで亡くなっているということにある。母親の場合、その年の1月のバリウム検査では異状が発見されなかったという。その後、腰痛がひどくなって病院で検査を受けたところ胃がんが肝臓に転移していることが判明し、入院から2ヶ月も経たない12月下旬に亡くなってしまった。母親もそうだが、私自身も酒やタバコはいっさいやらないので、おそらく、癌にかかりやすい遺伝的体質があるのではないかと思われる。「胃潰瘍の疑いあり」などと言われれば、本当は胃がんであり、急速に進行しているのではないかというパニック状態に陥ってしまうのである。




 ここで改めて、人間はなぜ自分の死を嫌がるのか、という問題を考えてみた。

 死ぬのが嫌な理由としては、とりあえず次の3点を挙げることができるだろう。

 第一は、どういう死に方をしても、死の直前に苦しまなければならないということ。行動分析学的に言えば、苦しみを伴う死はその個体にとって最悪の嫌子(ケンシ)である。

 第二は、進化生物論的に言って、現在地球上に存在している動物は、基本的に「可能な限り生きようとする」ような遺伝的特性が組み込まれているのではないかということ。仮に、古代のある時点で、「可能な限り生きようとする」動物と、「生死に執着しない」動物が半数ずつ地球上に存在しており、適応力や繁殖力が同じレベルだったとすれば、自然選択の中で生き残る可能性が高いのは前者に限られる。我々は、そのような性質を備えつつ、結果として地球上に生き残った動物の一種である。

 第三の理由は、死は、その人自身や周囲との関係、その人の社会的役割などをすべて失わせてしまうためである。生きていく上での何らかの楽しみや周囲との関係性は、基本的には好子(コウシ)であり、死は「好子消失」という結果をもたらす。その消失を自覚することが「はかなさ、空しさ」につながる。

 「死ぬのは嫌だ」という理由を克服する手段の1つとして宗教がある。これにもいろいろな立場がありうるが、おおむね「天国に行かれるのだから怖くない」と信じるケースと、「何事にも執着しない、よって、上記の第三の理由は自動消滅する」という東洋的な発想、の2点が挙げられるのではないかと思う。

 もっとも、私個人は、天国とか神のような存在は全く信じられない。「天国」という概念は、残された遺族にとってのみ有用であろうと思う。また「何事にも執着しない」という境地に達することは、それ自体は真理であるとは思っている。しかし、90歳や100歳となるならともかく、あまり若いうちからそういうライフスタイルに切り替えてしまうと、種々の課題に積極的に取り組もうという意欲が失せてしまうようにも思える。

 ところで、上記以外にも少なくとももう1点、死を嫌がる理由があるということに最近気づいた。それは、「死の可能性」が、将来に向けて何らかの展望を打ち砕いてしまうという不確実性をもたらしていることである。我々は、多かれ少なかれ、将来への夢とか目標のようなものを持ち、一歩一歩の到達を確認することによって強化され続けている。単純作業の繰り返しのような行動であっても、その積み重ねが何かの目標に向かっているのであれば強化される。何かの健康診断で深刻な結果が判明すると、そうした「PDCAサイクル型の自己強化」のシステムを無効化されてしまう。そのダメージは計り知れないのである。しかしこのことを逆に考えるならば、最初から、そういうリスクを組み込み、それぞれのリスクに対応した中長期的な可能性をシステムにちゃんと組み込んでおくのであれば、診断結果に一喜一憂するというような醜態を晒さなくても済むのではないかという気もしている。

 不定期ながら次回に続く。