じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



12月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る
§§
 霜をかぶったテンニンギクの花。テンニンギクは花期が長く、霜の降りるこの季節まで花を咲かせている。昨年の写真が、こちらにあり。


12月26日(金)

【ちょっと思ったこと】

「篤姫」総集編第1回

 NHK大河ドラマ「篤姫」総集編第1回の始まりの部分を観た。大河ドラマは殆ど観たことのない私であるが、この篤姫に限っては、第19回の大奥入城のあたりからほぼ毎回、HDDに録画したものを観るようになった(5月18日9月6日の日記に関連記事あり)。


 途中から見始めたことと、総集編より先に最終回を観てしまっているというせいもあるのだろうが、今回の総集編第1回(といっても、まだ最初の20分くらいしか観ていないが)は、私にとってはまことに新鮮、というか、別の俳優が別のドラマを演じているようにさえ見えた。但し、このドラマのテーマが「役割」であるということは、総集編の始まりの部分を観て、そうかそういうことだったのかと、納得できた。

 私が見始めた第19回以降の天璋院篤姫というのは、殆ど動作が無く、たいがい座っているか立ち上がっているだけで、表情や喋り方にも大きな変化が無い。あの程度の動きなら「くいだおれ太郎」でも代役がつとまると思われそうだが、もし本当にそうだったらドラマは単調となり、あれほど高い視聴率にはならなかったと思う。殺陣や大がかりな戦闘シーンなどの見せ場が無くても視聴者を魅了し続けてきたというのは、やはり、ストーリーに依るところが大きいように思う。

 主演の宮崎あおい(正式には「宮ア」)さんの演技が素晴らしかったことは言うまでもない。今述べたように、ドラマの後半では、大奥の豪華な衣装をまとっていて、座っているか、立ち上がってちょっと歩く以外にはこれといった動作が乏しい。そういうなかで繊細な感情の変化を演じるというのは並みの俳優にはできないことであろう。私が観た回の中では、特に、第49回の「明治前夜の再開」で小松帯刀と再開した時のシーンは見事であった。セリフも少なく動きも無いという状況のもとで、殆ど、目だけで、過去と現在と将来への思いが入り交じった複雑な心情を表現しておられた。このあたりは、能舞台に通じるところがある。

 これも私が観た回に限っての感想であるが、徳川家定役の堺雅人さんの演技もまた素晴らしく、宮崎あおい&堺雅人のいずれかがキャストから外れていたら、私自身がこのドラマを観ることはたぶん無かったと思う。




 同じく、途中から見始めた限りの感想になるが、私は最終回(第50回)はあまり感動しなかった。天璋院篤姫としての「役割」は基本的には無血開城と大奥解散で終わったはずであり、そこから先の「余生」、さらに死を迎える瞬間まではわざわざ描く必要は無いようにも思えた。人間個人は誰でも死をもって終わりとなるが、人生の半ばでも、その人に与えられた最も重要な「役割」を果たし終えるということはありうる。そこのタイミングをもって完としたほうがドラマとしては良かったのではないかなあ。もっとも、第1回目の誕生の瞬間から見守ってきた視聴者にとっては、過去のいろいろな思いにふけりながら臨終を看取るということにはそれなりの意味があるのかもしれない。総集編はこのあとも録画する予定であり、すべてを見終わったら、今述べた私の考えも多少変わるかもしれない。