じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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[今日の写真]

 大学構内の花桃の老木。昨年は3月23日に開花している。これまで開花が一番早かったのは3月8日(2004年)であったが、暖冬だった今年は3月3日から開花(←写真は、この老木の種から生えた二代目)が観察されている。


3月15日(木)

【思ったこと】
_70315(木)[心理]第一回構造構成主義シンポジウム(5)養老孟司氏の特別講演(3)「同じ」「違う」の意義

 3月11日に早稲田大学で開催された

第一回構造構成主義シンポジウム:わかりあうための思想をわかちあうためのシンポジウム

の感想の4回目。

 昨日の「違う」「同じ」の続きのお話のなかで養老氏は、世界各地の大都市がみな「同じ」景観になってしまっていることを嘆いておられた。ニューヨークでの街角インタビューと称して、東京都心の一角にアメリカ人を連れてきて番組映像を捏造しても、その場所が東京であるとは気づかれないかもしれない。県庁所在地などの大都市はみな同じ街並みになってしまっている。

 このこと自体は私自身も感じるところであり、例えば、京都に出張した時など、学生・大学院生時代に住んでいたあたりの街並みがあまりにも「グローバル化」してしまっているのに驚く。チベットのラサなどもこちらのアルバムにある通りで、一部の観光名所を除けば、中国の大都市どこにでもあるような街並みが目立つようになってきた。

 もっとも、「景観のグローバル化」を指摘されることと、本講演の論旨とは少々矛盾するところがあるようにも思えた。なぜなら、養老氏の御主張によれば、景観がみな同じになっても、そこで見える世界は個々人によって皆違ってくるはずだからである。また、「大都市がみな同じ」というのはあくまで旅行者の視点である。住んでいる人からみれば、自分が住んでいる街並みが他所と似ているか違っているかということはどうでもよいことだ。伝統文化や古き良き景観を守ることはゼッタイに必要なことだとは思うが、基本的な生活を支えるインフラ自体は住みやすいように改善すればよく、それが結果的に全国均一になったからといって、頭を使わない人が増えることにはつながらないと思う。

 もう1つ、「違う」「同じ」に関して、

●より上の概念を持ってきて、下位概念を「違う」という

というようなお話をされていたと記憶しているが(←私の聞き間違いの可能性もあり)、うーむどうかなあ、昨日もちょっと書いたが、個々の事物は「初めに、違いありき」であって、それらをニーズに応じて、分類してひとまとめにするのが「同じ」という概念である。その「同じ」が階層的に構成されて上位概念ができあがっていくわけだが、「違う」と言明するためには上位概念は必ずしも要らないようにも思う。

 もっとも、「初めに、違いありき」という時の「違い」と、特定の体系のもとで「同じか違うか」と判定する時の「違い」は、言葉は同じでも使い方はまるっきり別である。後者の意味で「違う」という時はやはり、上の概念が必要になるとは思う。




 人間でもそれ以外の動物でも、同じか違うかという判断は環境に適応するための利点をもたらしている。しかし、とりわけ人間において「同じ」「違う」が重要となるのは、やはり、集団で生活し、集団で行動する必要に迫られているためであろう。このコインは10円玉かどうか、という判断が人によって違っていたら物の売買はできない。かつては、敵と味方を見極めて集団で戦う必要があった。

 要は、「同じ」「違う」の判定は、ニーズに依存しているということだ。形式論理の世界でいくら厳密に論考が行われたとしても、事物を見極める時の「同じ」「違う」の基準がニーズに依存している以上、その上に構築される体系は、絶対的に正しい、間違っていると言えるようなものにはなりえないことをわきまえておく必要があると思う。

 次回に続く。