じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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[今日の写真]
このところ雨や曇りの朝が多かったが、12月10日の朝はよく晴れ、東の空に、水星と木星が並んで光っているのがよく見えた(6時24分撮影)。双眼鏡ではそれらの右横に火星があることも確認できた。『天文年鑑』によれば、12月10日の朝5時に、水星と火星は1度02分まで接近。また11日2時には、水星と木星はわずか0度8分まで近づいて見えるという。岡山では11日の朝も晴れの予報となっており、水星と木星の見かけ上の大接近が観察できそう。

12/11追記]11日の朝は全般に晴れていたが、空が明るくなる頃まで東の空に雲が残っていて「大接近」を観察することはできなかった。



12月9日(土)

【思ったこと】
_61209(土)[心理]傾聴ボランティアとアクセス・ボランティア

 12月5日(火)にDVD録画しておいたNHKクローズアップ現代「誰かとおしゃべりしてますか〜広がる“傾聴ボランティア”〜を見た。

 番組記録サイトにもあるように、単身生活で会話の機会を失っている高齢者を訪問して、お喋りを「傾聴する」というのがボランティアの仕事。「傾聴する」といっても、研究目的の面接調査をするわけではない。本人に語りたいことがあれば、愚痴であろうが、とりとめのない世間話の反復であろうが、自画自賛であろうが、内容について諫めたりせずにひたすら傾聴するというボランティアのようであった。スタジオゲストのO氏は、私とほぼ同年代で、大学院生の頃から存じ上げている。そう言えば、O氏は、学会企画などで、私のとりとめもない話題提供を傾聴してくださったことがあった。ひょっとしてあのころから「傾聴ボランティア」のアイデアを温めておられていたのだろうか。

 録画再生後、ネットで検索してみたところ、すでにホールファミリーケア協会(今回の番組にも登場)というWebサイトがあり、書籍も刊行されていることがわかった。当該協会や書籍の紹介文を通じて、傾聴ボランティア(シニア・ピア・カウンセリング)のあらましを知ることができる。




 11月21日の日記で、

●写真療法とフォトセラピーとNPO登録商標問題

という話題を取り上げたことがあったが、今回はもっぱら「傾聴ボランティア」という呼称に徹しており、「療法」や「セラピー」という言葉は出てこなかった。あくまで私の勝手な想像だが、「療法」や「セラピー」と使うと、どうしても、効果の検証や、手法の厳密性・体系性が求められ、NPOであればさらに呼称の登録商標の問題が絡んでくる。「ボランティア」としておいたほうが気軽に参加できるし、とにかく、「話し相手が欲しい」というニーズに応えられる範囲であれば、ことさら「セラピー」などと大上段に構えなくてもいいのではという考えがあるのかもしれないと思った。もっとも関連するNPOでは「シニア・ピア・カウンセリング」というように「カウンセリング」を名乗っていることから、けっきょくは、ある種のセラピーとして確立していくことになるのかもしれない。




 さて、私自身がもし不幸にして単身高齢者になったとしたらそういう「話し相手」を求めるだろうかと考えてみたが、うーむ、どうかなあ、心の底から「長谷川の話を聴きたい」という奇特な人が相手ならともかく、「長谷川が可哀想だから話し相手をしてやろう」という「おもり役」的な形で来られたとしても、それによって元気づけられることはまずあるまいと思う。

 少し前に某学会のシンポで、菊池寛の忠直卿行状記に言及されたことがあったが、主君では無いにせよ、周りから「(本気ではなくて)相手をしてもらう」というのは、私個人にとってはあまり気持ちのよいものではない。私には子どもの頃からそういうところがあって、例えばお正月などに大人や年長者から「遊ぼう」と言われた時など、みんなで楽しむことを目的とした遊びならば参加するが、「私のために遊んでくれているのだ」と察知した瞬間にはもう「遊んでくれなくていいよ」という気持ちになってしまうのであった。そういうひねくれ者であるからして、歳を取って孤独になることがあったとしても、「私のために話を聴いてくれる」というボランティアを相手に、わざわざお喋りをしたいという気持ちにはたぶんならないだろう。

 ところで、このWeb日記もまもなく執筆開始10年になるが、こういうことを続けているというのも、「お喋りがしたい」という欲求を満たす役割を果たしているのかもしれないと思うところはある。執筆の第一の目的はいちおう「じぶんの更新」ということになっているが、アクセスしてくださる方々に何か役に立つような情報を発信できればという気持ちが無いわけではない。しかし、いずれ思考力・執筆力が低下して「内容は無いよう」日記に化し読者がゼロになったとする。それでもなお書き続けるかどうかは、そうなってみなければ分からない。それはそれでいいのだが、もし、どこぞで「アクセス・ボランティア」なるものがあって、そういう人たちの意図的な行為でアクセス数が保たれていたということに気づいた日には、忠直卿みたいな気持ちになって、執筆をやめてしまうこともありかなあと思ってみたりする。