じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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[今日の写真]

秋分の日を前に、真東から太陽が昇るようになってきた。東西方向の道路には日が差し込む(9月15日の日記に関連記事あり)。


9月20日(水)

【ちょっと思ったこと】

目撃したなら通報せよ

 大阪府茨木市の山中に個人タクシーが放置され、運転手が行方不明になっている事件のことが伝えられている。その中には
  • 【2006年9月19日14時40分 読売新聞】17日午前0時過ぎ、高槻市内の路上に停車したタクシーの運転席の男性が、「助けて」と叫び、クラクションを何度も鳴らすのを通行人が目撃。
  • 【2006年9月21日07時11分 NHKオンライン】高槻駅から南に5キロほど離れた団地の路上で、前久保さん【=運転手のお名前】とみられる男性が白いTシャツを着た男と激しく言い争っているのが目撃されていますが..
という記述があった。

 私がよく分からないのは、そういうことを目撃した人は、なぜその時、110番通報をしなかったのかということだ。通常の言い争い程度ならともかく、「助けて」と叫んでいるような時に何も行動しないというのは、ちょっと理解できない。

 7月31日の日記8月3日8月4日の日記に続編あり)で指摘したように、昨今、高速道路料金所突破、ゴミの不法投棄、図書館から借りた本の損傷などが、「モラルの低下」という言説でひとまとめにされる風潮があるが、個々人のモラル向上ではなく、他者との関わりにもっと重きをおくことが必要ではないかと思う。他者の災難があった時や暴力行為を目撃した時には、せめて迅速に通報することが必要、関わりを避け、あとになってから「そう言えばあの時、あんなトラブルを目撃した」と語っているようでは、いくら個人内でルールを守っていたとしても、不幸な事件は決して無くならないだろう。

【思ったこと】
_60920(水)[心理]日本教育心理学会第48回総会(4)社会調査結果のレトリカルな客観性


●「学習資本主義」社会と教育改革‐「自ら学ぶ力」の格差問題‐

という特別講演の感想の4回目。




 本日は講演内容から脱線して、昨日の日記で
極言すれば、答申に出現するキーワードを列挙によって見えてくるのは、時の政府が、どういう掛け声・号令を発していたかということだけである。その掛け声・号令で本当に個々人が変わったのかどうかは別の問題だ。もちろん、ある施策を実施したことによる成果もあれば、弊害もある。しかし、世の中のすべてが施策の成否で振り回されるわけではない。
と述べたことについてもう少し考えを述べてみることにしたい。

 まずお断りしておくが、各種答申や施策というのは、必ず、詳細な調査や評価が行われ、専門家の判断を踏まえた上で取りまとめられていくものである。掛け声や号令が発せられるからには、その背景に何らかの社会現象があることは私も否定しない。

 しかしそうは言っても、社会現象は無限に近いほどたくさんある。その中からどれを取り上げるかということについては、話題性を商品とするマスコミ、経済界の要請、為政者の都合などを大きく反映しているように思えてならない。

 K氏もちょっとだけ言及しておられたが、例えば「地域の格差」があるのは事実である。しかしそれが、強調される背景には、農村票を獲得したいという政治家のニーズがある。考えてみれば、種々の格差などというのは、平安時代にも、江戸時代にも、明治時代にも、今よりもっとひどい形で存在していた。ある程度の「格差是正」はできるとしても、格差が完全に解消されるようなことは今後もあるまい。

 同じようなことは「少年犯罪の凶悪化」という言説にも見られるし、また、昨今話題の「飲酒運転多発」キャンペーンも同様()。
 おことわりしておくが、飲酒運転が根絶されるべきであるのは当然である。飲酒運転(←薬物使用、暴走行為、検問突破による逃走も同様)による死亡事故は、未必の故意による殺人罪で裁くべきだというのが私の持論だ。但し、それはそれとして、飲酒運転による事故は最近になってそんなに急増しているというわけではない。21日朝のNHKニュースによれば、飲酒運転による死亡事故は、先月末までに474件であるが、去年の同時期に比べると9件増えているだけであって、急増と呼べるほどではない。また、各所で酒気帯び運転の不祥事が発覚しているが、これは、取り締まりや組織内監視を強化したことによって増加した数値であって、最近になってドライバーのモラルが急速に低下したということではない。


 ひとくちに調査といっても、医学的な疫学調査と社会調査では、期待できる成果が異なっているように思う。例えば、いくつかの地域で癌の発生率に有意な差があることが分かった場合、発生率の高い地域の住民の食事内容や水道、大気の成分をさらに調べれば、何らかの発ガン物質を特定できる可能性がある。また、正体不明の病気が多発している場合にも、疫学調査を出発点として、原因を解明できる可能性がある。しかしこれらが可能になるのは、癌や感染症の発症の生理学的メカニズムがかなりの程度で知られており、かつ、単一または比較的少数の要因によって現象が引き起こされるからにほかならない。

 しかし社会調査となると話は変わってくる。

(1)ある施策を実施した
(2)調査によれば、○○という変化が有意に認められる
(3)よって、その変化は、施策の成果(または弊害)である。

という言説はしばしば見られるが、(2)の有意差がいかに統計的に保証されていたからといって、直ちに(1)の結果であるとは断定できない。また(2)の変化は、施策が完璧に実施されたことによる変化である場合もあれば、不完全に実施されたためにもともとの変化がくい止められなかったことによる場合もある。

 けっきょくのところ、社会調査によって得られた結果というのはしばしば、「レトリックの産物としての客観性(
Gergen, K. J. (1994). Realities and relationships; Soundings in social construction. Cambridge: Harvard University Press. [永田素彦・深尾誠訳(2004):社会構成主義の理論と実践-----関係性が現実をつくる, ナカニシヤ出版]訳書 第7章5節 238頁あたり
を示すにとどまるという気がしてならない。




 もちろん世の中には、誰がみても明らかなほどに顕著な社会現象というのはある。例えば、みんなが髪を染めれば、街中の様子は一変する。携帯電話の利用も同様だ。しかし、社会調査によってやっとこさ確認されたというような「現象」については、とりあえずは眉唾ものとして疑ってみたほうがよさそうだ。

 こんなこと言うと、総スカンをくらいそうだが、もしかすると、「社会現象」なるものの多くは、社会学者によって発見されるのではなく、一部の社会学者とそれに便乗したマスコミによって作られているだけにすぎないかもしれない。そうして、その作られた社会現象を別の社会学者が否定する。そうやって論文や著作がいっぱい増え、特に注目された場合には流行語大賞にもなる。しかし、じつは世の中、社会学者やそれに便乗したマスコミが言うほどには、そんなに変わっていないのかもしれない。

 次回に続く。