じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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[今日の写真] ザクロの花と実。同じ木に前年になった実と今年の花が同居している写真としては、ほかに、6月1日の日記掲載の「センダンの花と実」がある。「花を咲かせ、実をつけ、種をつくる」という繁殖の方略から言えば、これは合理的とは言えない。だいいち、こんな時期まで実をつけていても発芽しないだろう。樹木自体が弱っているのか、異常気象によるものか、あるいは、何らかの環境物質の影響なのか、気になるところである。


6月21日(水)

【思ったこと】
_60621(水)[心理]学会誌論文査読は質保証になるか?(1)

 心理学関係のメイリングリスト「fpr」に、「日本心理学会への苦情」というタイトルの投稿があった(6月20日付け)。メイリングリストのログはWeb公開されておりリンク自由ということなので、以下に、そのurlを記す(全体のログはこちら。但し、2006年度の発言ログは2006年6月21日現在でリンク未掲載のため、2005年度のログのurlとの一貫性から推測した)。

[fpr 2966] 日本心理学会への苦情

 この投稿では、もっぱら、日本心理学会の査読や対応の悪さが指摘されていた。私自身も、学会組織としての改善が求められることは当然であると思っているが、それはそれとして、国内の学会誌はどこも似たり寄ったりかなあという気がしないでもない。

 私自身が入っている学会に限ってのことだが、いずれの学会も、学会誌が定期的に送られてきたためしがない。時には1年以上何の音沙汰もなく、年次大会に参加しない限りは自分がその学会の会員であったことさえ忘れてしまいそうな状況である。学会理事を仰せつかっている時には、学会誌投稿状況というのが報告されるが、「査読の結果待ち」という論文数がやたら多い。査読者として指名された人が期限までにきっちり返事を出していればそんなことにはならないはずなのだが、とにかく、リンク先の「苦情」ほどの事例は稀であるとしても、投稿から掲載まで長期間音沙汰無しということはありがちなことだと思う。

 もっとも査読者側にもそれなりの事情がある。私のところにもたまに、何の挨拶も無しにとつぜん論文査読依頼が送りつけられてくることがある。研究者のはしくれとして精一杯ご奉公したいという気持ちはあっても、それが、1〜2月の多忙期であったり、また、授業担当コマ数が週に10コマを超えるような期間であったりした時には、じっくりと査読などできるはずがない。

 いっぽう、編集者側にも弱みがある。査読というのはトップダウンの命令ではなく、「お願いする」という形をとっている。査読者が締切を守らなかったからといってペナルティを課す立場には無いのだ。また、査読者の名前は通常、学会誌の裏表紙のあたりに「編集協力者」というような形で掲載されるが、学会員であれば無報酬が原則、また、教員の個人評価においても、学会活動への貢献として評価されるウェイトは皆無に近い。行動分析の強化の法則から言って、査読作業の優先順位が後回しにされがちになるのは当然とも言える。




 ではどうすればよいのか。これについては前にも書いたことがあるが、少なくとも心理学系のジャーナルに関しては、
  • 投稿された論文はすべてオンラインジャーナルとして掲載
  • それぞれの論文をブログ形式にして、コメント(→ここでは「オープンリビュー」と同義)、トラックバック(→ここでは「引用」と同義)
としても何ら問題ないように思う。

 ネットが普及した現在、論文を印刷物で刊行するメリットは全く無い。むしろ紙資源の無駄遣いでもあり、また、学会費高騰の根源にもなっている。

 データの捏造の疑いや倫理的な問題については事前に審査するとしても、それ以上の内容については、学会員全員から広く批評を受ければそれでいいではないか。的外れの批評については執筆者自身が反論を書けばよい。「炎上」状態になった時に限っては、編集者が仲裁に入ればよいだろう。投稿者を会員に限定し、実名で意見をたたかわせている限りにおいては、匿名掲示板でありがちな不毛な水掛け論には陥らないものと思うが。




 査読論文という制度が有用であるのは、大学教員の採用人事の時くらいのものだろう。この場合、異なる分野の応募者を公正に比較するには、けっきょく、レフェリー付きの論文が何本あったか、どういう雑誌に掲載されていたか、といった「外部評価」に頼らざるを得ない面がある。

 しかし、その場合も、上に述べたようなオープンリビューを活性化しておけば、人事委員会(選考委員会)のメンバーは、候補者の論文とその論文に対する多様な評価の両方に目を通すことで、その学界における論文の学術的価値をより精密に把握することができるので問題無かろう。

 このほか、コメント(オープンリビュー)が全くついていない論文は「注目されていない論文」、コメント者(オープンリビューワー)が特定人物に限られている論文は「内輪の論文」ということになる。また、問題点を適確に指摘しているようなコメントはそれ自体、コメント者の研究業績として評価されるようになるだろう。


 この話題については他にも考えるところがいろいろあるが、時間が無くなったので明日以降に続く。