じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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[今日の写真] 岡山県立美術館で藤城清治 光と影の世界展が開催されており、私も一度は訪れたいと思っているところだ。ところで、6月7日に登った毛無山(けなしがせん)の山中でも天然の「影絵」を見つけることができた。写真左半分はデジカメで撮影した元の写真。右半分は、画像処理ソフトの「トーンカーブ/レベル」補正により影絵っぽく補正してみたところ。


6月8日(木)

【ちょっと思ったこと】


天然石の価値

 6月8日朝のNHK「まちかど情報室」で天然石を楽しむという話題を取り上げていた。その中でも、天然石観察会や、天然石でのアクセサリー作りの話が面白かった。

 もともと宝石というのは、美しいからこそ身につけるはずであり、「身につける」ことの使用価値によって評価されるべきものであった。ところが、そのうち希少性のあるものが、資産として別の物差しで評価されるようになる。そしてあげくの果てには、マネーゲームの投資対象となる。

 天然石の美しさは本来、1個の石のオンリーワンの美しさであって、その希少性や交換価値によって左右されるものではない。自分の持っている宝石について「これは、いくらで買った」、「いくらで売れる」とした評価できないのはあまりにも空しい。海岸、露頭、河岸、砂漠などで、苦労して自分の手で見つけた天然石のほうがはるかに価値があると思う。

【思ったこと】
_60608(木)[教育]第54回 中国・四国地区大学教育研究会(5)Graduation Policyとカリキュラムマップ

 5月30日の日記の続きで、連載の5回目。この種のイベントがあった時は、どんなに遅くても2週間以内に参加感想をWeb日記にまとめることを心掛けているのだが、その後、学会年次大会(6/3〜6/4)の準備などあって延び延びになってしまった。

 さて、5月27日(土)の15時30分から17時15分までは、4つの部会に分かれてテーマ別セッションが開催された。私自身はその中の

●第2部会:教員の教育力や教育成果の検証方法について

に出席した。

 部会では、2つの話題提供が行われたが、そのうちの1つは、私自身の大学の「授業評価および個人評価制度とそれらによる教育改善」の紹介であり、当然すでに知っている内容であった。

 もう1つの話題は、
  • GP設定:但しここでいうGPとは「Graduation Policy」の略。教育活動の成果として卒業時に学生に保証する最低限の基本的な性質。
  • 各授業科目の到達目標とGPとの対応関係を示すカリキュラムマップの作成
  • これらの成果検証
という取り組みであり、なかなかしっかりしているなあという印象を受けた。

 もっとも、GPとして掲げられた内容は、例えば「文献および資料収集が必要に応じ、的確に出来る」、「計算機についての基礎的事項を理解している」、「プログラミングの基本を修得している」といったようにかなり抽象的であるため、具体的に、どの水準まで達成できた時に成果と見なせるのかが不明であるように思えた。

 また、私自身、フロアから質問させていただいた点であるが、PDCAサイクル(Plan→DoやCheck→Act)による検証・改善プロセスのうち、Checkのところが
  • 学生授業評価・教員授業自己評価
  • 卒業時・修了時満足度調査
  • 自己点検・評価
となっていて外部からの評価が含まれておらず、顧客としての学生の満足度は高められても、社会に対する質の保証という点でのチェック機能が不十分ではないかとの印象を受けた。なお、私のこの指摘に対しては発表関係者から補足説明があった。

 このほか、今回例示された授業が情報科学教育課程の科目であったため、受講生のレベル(受講生個々人のワープロソフト、表計算ソフト、UNIXなどへの習熟度の違い)が受講スタート時から異なっており、このことを受講した結果としての「達成」にどう反映させるのか、分かりにくいところがあった。同様の問題は英語教育でも起こりうると思う。

 このほか、フロアからの質疑の中で、

●受講生50人全体の評価は低いが、そのうち3〜4人だけは「将来を左右するほどの大きな感銘を受けた」という感想がもたらされる授業というのもあってよいのではないか(←長谷川の記憶のため不確か。いずれ報告集ができた時には文言修正予定)。

という意見が出された。しかしそれに対しては、今回のメインテーマ講演者をつとめられた荻上氏(大学評価・学位授与機構教授)から

●やっぱりそういう授業は失格。3〜4人だけに感銘を与える授業は3〜4人だけを対象に別にやってもらいたい。授業は大学と学生との契約に基づいてサービスを提供するという意味もある。残りの学生に不満を与えるような授業では社会に対する責任を果たしているとは言えない(←長谷川の聞き取りのため、かなり不確か)

というようなコメントがあった。私もこの考え方には同感である。少子化、全入時代を迎える中で、入学者のレベルはますます開きが出てくるものと予想される。それぞれの領域において、難解な先端レベルの授業とは別に補習的な授業も多様に開講し、学生の多様なレベルに対応していくことが求められている。

 この連載はあと1回で完結させる予定。