じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



5月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る
[今日の写真] 行きつけの花屋で買った「ピメレア スターローズ」。ネットで検索したところ、どうやらピメレア・ブラキフィラPimelea brachyphylla)が正式名のようだ。ジンチョウゲ科。オーストラリア原産の半耐寒性常緑小低木。注意点としては、日当たりがよく霜の当たらない場所に置き、長雨には当てないようにする。5月頃に2/3程度切り戻す。
ジンチョウゲ科と言われれば何となく沈丁花やミツマタに似ているように見える。オーストラリア原産で思い出したが、タスマニアで見たマウンテン・ロケットも似た形をしている。


5月1日(月)

【ちょっと思ったこと】

クビキリギス

 5月1日の岡山は最高気温が29.5度まで上がり、あと一歩で夏日という暑さとなった。この暑さにつられて、4月30日からは、暗くなると「ジーーーーッ」というクビキリギスの大合唱が聞かれるようになった。

 夕食の散歩時、至る所でこの声が聞こえるのだが、いったい何匹くらいが鳴いているのだろうか。そう言えば以前、2004年5月18日の日記で、田んぼにカエルは何匹いるか、と書いたことがあった。声の大きさだけから直感すると、10cm間隔に並んで何百匹、いや何千匹ものカエルが一斉に鳴いているように思えるが、じっさいは10〜20匹程度、鳴かない個体も含めて50匹程度ではないかと推測される。

 このクビキリギスの場合も、散歩道沿いで鳴いている総数はたぶん数十匹程度ではないかと思うのだが、そーっと近づいても正体を確認するのはきわめて困難。ずーっと録音していって、音声パターンを区別すればカウントできるかもしれないが。

【思ったこと】
_60501(月)[心理]ライフスタイルを変えるという意味(3)人類皆兄弟か、自分たち以外は皆宇宙人か

 日記才人経由でいつも拝見している歯医者さんの一服の中で、人類皆兄弟症候群(5月1日付け)という話題が取り上げられていた。10年ぶりに朝の通勤ラッシュの時間帯に電車に乗ってみると、缶ジュースや缶コーヒーを飲んでいる人や、化粧をしている女性などが居て、モラルの変化が感じられたそうだ。執筆者の方は、先輩の同業者の方の言葉を引用して、こういう現象を“人類皆兄弟症候群”と名付けておられた。外の社会と自分の家の中を区別できないという意味である。但し、駅の構内でタバコを吸う人はほとんど見かけなくなったという変化もある。先輩の同業者の方の説によれば、こちらのほうは健康増進法の条文が効いているためであるという。

 私自身は、満員の通勤電車とは全く縁の無い、徒歩通勤の生活をしているので、そういう変化があるのか無いのか、自分の眼で確認する機会が無い。たまに上京した時に感じるのは、電車ホームでの喫煙は殆ど見られなくなったということ、缶飲料よりもペットボトルの利用が増えているなあという程度のことである。

 私がむしろ興味をもつのは、通勤電車の中で、周囲の人に配慮せずに缶飲料を飲んだり化粧をしたりするのが、果たして、「外の社会と自分の家の中が区別できない」ことによって起こっているのか、という点である。外の社会との区別ができていないのではなくて、外と関わりを持たない自分の世界だけで生きているのではないかなあ、という気もする。

 以前、この日記でも取り上げたことがあるが、この季節になると時たま、私の住むアパートの目の前の広場のベンチで、夜中まで大声で喋っている若者たちを見かけることがある。テレビなどの音を消していれば、上の階の住人でも内容が容易に聞き取れるほどの声の大きさである。中味を聞かれて恥ずかしく無いのだろうかと思うのだが、彼らにしてみれば、いまの自分たちの世界はベンチの周りだけ。アパートの住人などというのは、自分たちとは全く関わりの無い異次元空間の宇宙人に過ぎないのだろう。

 車を運転中、窓から吸い殻、包み紙、ガム、時には紙パックや空き缶まで投げ捨てる不届き者が居るが、あれも要するに、自分(たち)の世界は車の中だけ、車の外は宇宙人が住む異次元空間であり、ポイ捨てで汚れようが知ったことではないという発想なのだろう。

 人類皆兄弟症候群説も、自分たち以外は皆宇宙人説も、外の社会が区別できていないという点では同じことを意味している。但し、外の社会の人たちをある程度意識し、兄弟みたいに捉えているのであれば、迷惑行為はもっと減るのではないかという気もする。

 なお、この連載との関わりで言えば、要するにモラルとか倫理観というのは、個人の行動をコントロールする絶対的な基準にはなりえないということ。内の世界では死刑反対を唱える人でも戦争になれば敵を殺すというように、内の世界と外の世界をどこまで区別するか、どのあたりに境界線を敷いているのかで、行動が変わってくるということを指摘しておきたかったのである。