じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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[今日の写真] 大学構内で見かけたオオイヌノフグリのお花畑(4月7日撮影)。3月8日の日記で紹介した場所よりも日が当たりにくいところに生えているため開花にズレがあるようだ。

オオイヌノフグリは厄介な雑草の1つだが、一斉に開花したときはネモフィラのお花畑並みの美しさがある。



4月11日(火)

【ちょっと思ったこと】

雨が多い新学期

 岡山ではここ3日間、雨が降り、12日朝6時の時点で72時間積算雨量は56.5ミリとなった。中国地方県庁所在地の中では、高知202.0ミリ、徳島166.0ミリ、広島155.0ミリ、山口146.5ミリというように100ミリを超えた都市もあった。

 岡山市の4月の降水量の平年値は、102.4ミリとなっているが、今年は4月11日までですでに86ミリとなっており、平年値を大幅に超えそうな気配だ。

 そんななか11日より平常授業が始まったが、気になったのが雨の中の自転車利用である。学生たちは、ほぼ例外なく、片手で傘を持ちながら通学していた。片手運転ではブレーキが利きにくい。前にも書いたことがあるのだが、自転車に傘を固定する金具が日本で普及しないのは何故なのだろうか。最近では、自転車屋さんや、ホームセンターの自転車部品売り場でも2800円程度で売られていたと思うのだが...。さらに安全なのは、雨合羽。ゴアテックス仕様なら汗もかかないと思うがこれも結構高価。

 幸い、自転車通学の学生が事故に遭ったとの報告は今のところ受けていないが。

【思ったこと】
_60408(日)[心理]脱アイデンティティ、モード性格、シゾフレ人間(9)自己物語の入れ子構造と因果性

 この連載の6回目(3月16日の日記)のところで、
  • 浅野智彦 (2004).自己物語論が社会構成主義に飲み込まれるとき ケネス・ガーゲンの批判的検討. 文化と社会, 4, 121-138.
  • 浅野智彦 (2005).第二章 物語アイデンティティを越えて?[上野千鶴子 [編]. 脱アイデンティティ. 勁草書房. pp.77-101].
という2編の論文に言及したが、批判の対象にもなっているガーゲンの著作はなかなか読み応えがあり、私自身、まだコメントが書けるレベルには達していない。もっとも、そういった論議は別として、とにかく、ある時期のケネス・ガーゲンの着想にはなかなか興味深い部分がある。その1つに、「入れ子構造の物語(nested narrative)」というのがある。浅野(2005, 87頁)によれば、1983年の時点でガーゲンは次のように考えていた。
ガーゲンは、その自己物語論の中で、自己物語がカバーする時間的範囲の長短によってマクロな物語とミクロな物語を区別している(Gergen & Gergen [1983])。例えば〈喧嘩していた恋人との和解〉についての物語がミクロなそれだとすると、〈自分が属するエスニック集団の輝かしい歴史〉はマクロなそれということになる。この二つの水準はあくまでも相対的にのみ区別されるものであるが、区別がなされる限りにおいてそれぞれに異なったプロットを適用しうるとガーゲンは考える。例えば、前者に対して恋人の別離の危機を乗り越えたという「喜劇」のプロットを適用できるとすれば、後者に対しては「進歩」のプロットを適用することができるだろう。両者は異なった時間幅をもっているために、後者が前者を包摂しながら矛盾なく共存することになるとガーゲンは論じた。彼の言葉でいえばそれは「入れ子構造の物語(nested narrative)であり、入れ子構造である限りにおいて最も外側の枠が全体の統合性を支えていると彼は論じていた。
 そのあとに続く浅野の批判については別の機会に論じるとして、とにかく、過去の出来事をこういう「入れ子」に入れて扱うことがある、という点は重要であると思う。

 過去の出来事をつなぎ合わせて物語を作るというと、「人間万事塞翁が馬」型の山あり谷あり人生のように横一直線上に羅列するだけの物語を考えてしまったり、非科学的なまでに「このことがあったから、ああなったのだ」という過剰な「因果的」こじつけを行うことがありがちであるが、全く別の観点として、幸不幸をひっくるめて1つの入れ子に入れ、マクロな繋がりの中で「進歩」の物語に作り替えることができるという可能性を忘れてはならない。但し、浅野(2005)が批判するように、それが単に、時間的な長短だけで決まるものとは言い難い。

 入れ子をどのような規模で設定するかというのは、ある程度、個人の裁量に委ねられているようにも思う。例えば、「現世と来世」を1つの入れ子に入れて人生を考える人にとっては、現世のどんな辛いことも本質的な不幸にはならない。「現世」だけを1つの入れ子で考える人は「人生は悲喜こもごも、いろいろあるさ」ということになる。もっともそれだけでは「物語」としてはあまりにも大雑把すぎる。ニーズに応じて、より細かく切り分けていくものになるのだろう。