じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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[今日の写真] 日本付近には第一級の寒波が到来し、県北の人形峠では、一時50cm台まで減っていた積雪が再び1メートルを超えた(最深は3月13日の114.2cm)。しかし春は着実に近づいている。3月10日の日記に掲載した早咲きのサクランボの花が早くも七分咲きとなった。


3月13日(月)

【思ったこと】
_60313(月)[心理]脱アイデンティティ、モード性格、シゾフレ人間(3)

●上野千鶴子編『脱アイデンティティ』ISBN 4326653086

の感想の続き。なお、この連載は論評ではなく感想を述べることを目的としているので、読み進めていく中で疑問に思った点はそのつど記していくというスタイルをとりたいと思う。それらの疑問点のうちいくつかは後に氷解、一部は批判、反論、代替案の提示などの形で展開されることになるだろう。

 さて序章の最初のほうで上野氏は
今からふりかえってみれば、二〇世紀は「アイデンティティidentity」という概念が席捲した時代だった、と言ってよいかもしれない。ひとびとは「アイデンティティ」なしでは生きられないかのようにふるまい、宗教や文化や民族アイデンティティをめぐって殺し合うことさえ起きた。だが、あとで述べるように、「アイデンティティ」という概念の歴史はそれほど古くない。フーコーが『セクシュアリティの歴史』(Foucault[1976=1986])で論じるように、カテゴリーの存在しないところには、そのカテゴリーが指し示す知の様態そのものが存在しない。「アイデンティティ」を通歴史的な概念とみなす代わりに、それが登場したプロセスをたどり直すことで「アイデンティティ」という概念そのものを、歴史化し、脱構築することはできないだろうか。この問いは、同時に「アイデンティティ」という概念が登場したときに、それが言及すべき特定の歴史的現象が生まれたという推測と結びついている。だとすれば、その歴史的現象そのものに変化が起きれば、「核家族」同様、「アイデンティティ」という概念も、耐用年数が切れるにちがいない。

【2頁】
と、述べておられる。読み始めた時に、まずこの点で引っかかってしまった。

 まず“ひとびとは「アイデンティティ」なしでは生きられないかのようにふるまい、宗教や文化や民族アイデンティティをめぐって殺し合うことさえ起きた。”という部分だが、確かに、20世紀における宗教や民族の対立はアイデンティティに起因した問題であるかもしれない。しかし、なにも「アイデンティティ」という概念を理解した上で殺し合いに関与したわけではなかった。知の様態が先にあってから行動が生まれるのではなく、まず外在的な原因が先にあり、それに都合のよい概念なり言説が結果的に支持され普及していくだけではないのかなあ。いや、この部分は、読み始めた時点での疑問であって私の誤解かもしれないが。

 もう1つ、これはおそらく社会学と心理学(あるいは行動分析学)との根本的な違いなのかもしれないが、心理学で考える「アイデンティティ」というのは、時代や文化を超えた普遍的な概念であり、もちろんその様態や性質は時代と共に変わるとしても、その根底に根本原理や普遍法則のようなものを想定していたのではないかと思う。だから、アイデンティティ概念が脱構築化され、社会学という学問領域の中で、あるいはジャーナリズムの世界で賞味期限切れになったとしても、人々の行動の特徴を記述する概念として、また立場によっては、何かを説明する概念として、アイデンティティモドキの概念は残り続けるのではないかという気がする。このあたりも、後に考えが変わるかもしれない。

 ちなみに、ウィキペディアでは、社会学は
社会現象の実態や、現象の起こるメカニズムを解明するための学問である。社会的な文脈で人間、及びその集団や、人と人との関係、さらには、より大規模な社会の構造を研究する学問ということができる。あるいは、思想史的に言えば、「同時代(史)を把握する認識・コンセプト」を紡ぎ出そうとする学問である。この学問の研究者については、社会学者といわれる。
というように定義されているが、恥ずかしながら、私には未だに社会学が何をする学問なのかということが理解できていない(←じゃあ、心理学は何をする学問だと言われても、いろんな立場がありますとしか答えようがないけれど)。

 第一印象としての「社会学」というのは、テーマ的には何でもアリで面白そうな気がするが、やたら難しい言葉を並び立てて、ああでもない、こうでもないと言い放ったあげくに、あの議論はもう賞味期限が切れて脱構築化されたなんて言って、次のテーマに移っていくのかなあ、などと思ったこともあったが、この誤解については、本書のあとがきを拝見してかなり氷解した。
 理論は現実を説明するためのツールである。対象が変化すれば、ツールも変わらざるをえない。理論というツールは、社会学の共有財産であり、継承・再生産されていくが、それはたんなる再生産ではなく、変容・修正・抵抗・改訂のプロセスをたどる。そしてそのプロセスには、研究者と呼ばれる人々の熱い苦闘と関与がある。理論を「机上の空論」と切って捨てる人は、たんに「間尺に合わない」ツールの無効性を宣告しているにすぎない。理論を軽視する人は、そのことによって理論に復讐される。わたしたちが現在使っている概念が、どんな出自を持つかを知れば、安易にそれを使うことも廃棄することも、できなくなるだろう。
 もういちどくり返そう。理論はツールである。ツールは使うものであり、ツールに使われてはならない。現実と理論とが対応しなくなったとき、変わるべきはもちろん理論の方である。だが、それでさえ、黙っていてもそうなるわけではない。それがつねに生成のプロセスにあることを、本書のすべての論文を通じて、読者は実感されるであろう。

【324頁】
 ちなみに、序章29頁のところで上野氏は

語呂合わせのようだが、再生とは差異生産でもありうるのだ。【「差異」の部分にルビあり】

と述べておられる。以降、上野氏が書かれている「再生産」がすべて「差異生産」というように読み替えてしまう癖がついてしまった。しかし、再生産であっても「差異」生産あっても、とにかく、何を生産するのかが問題だ。ペーパーの数だけ増やしても何も社会には還元されない。

 上掲引用部分では「理論はツールである。ツールは使うものであり、ツールに使われてはならない。」という部分はまさにその通りであり、少なくともスキナーが言う理論とはそういうものである。但し、本書でいうところの「使う」とは、何のためにどうやって使うことなのか。上野氏ご自身の実践活動のようなことを指すのか、関連書をもっとたくさん拝見してからでないと、このあたりのことは分からないままになりそう。

 うーむ、なかなか、先に進めない。