じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] [今日の写真] [今日の写真] 11月15〜16日の夜はよく晴れ、夕刻の東の空には月と火星(写真左)、西の空には金星(写真中)、翌朝の南東の空には木星(写真右)が明るく輝いていた。
ちなみにこの時期、土星はふたご座の近くにあり、また水星は12月上旬に明け方の南東の空に見えるようになる。



11月15日(火)

【思ったこと】
_51115(火)[心理]社会構成主義と心理学の新しいかたち(11)論文執筆指導における客観主義のレトリック

 毎月1〜2回程度で連載している社会構成主義関連の話題の続き(前回は10月19日)。Gergen(1994)の著作:

●Gergen, K. J. (1994): Realities and relationships; Soundings in social construction. Cambridge: Harvard University Press. 【永田素彦・深尾 誠 訳 (2004):社会構成主義の理論と実践---関係性が現実をつくる, ナカニシヤ出版.】

の第7章「レトリックの産物としての客観性」(翻訳書219頁〜)は、なるほどそうか、と思い当たる部分が多い。

 Geregenによれば、客観性という概念は機械論的メタファーに依拠している。そのエッセンスは、
  • 現実世界が、それについて知ろうとする人とは独立に存在する、という前提
  • 世界は、人が知ろうが知るまいが、それとして存在する。現実がわれわれとともに消滅することはない。
というところにある(翻訳書229頁)。私自身は、今のところ、このエッセンス部分を信じて疑わない部類の人間に属するのだが、少なくとも現実場面における「客観性」の使われ方を見ていると、Gergenの指摘にはもっともだと思われる点が多々ある。その1つは論文執筆指導において、いかに客観的記述であるかと「見せかける」ためのレトリックだ。

 Gergenは、論文でしばしば受動態が使われる理由について
外的世界と自己の経験が機械のような関係にあるというメタファーは、外界と内界との間の因果関係をも規定する。具体的には、環境の出来事はしばしば積極的な力を与えられ、観察者は受動的な犠牲者として描かれる。なぜならば、もし個人の知覚が、外的世界の先行条件に反応して、機械のような仕方で作動するならば、外界についての知識は、外界が内界に及ぼす影響によってほぼ規定されることになるからだ。こうした前提ゆえに、研究報告では受動態が頻繁に使われる
と述べている(翻訳書234頁)。受動態の概念は、英語と日本語では本質的に異なるのではないかという指摘もあるし(こちらの論文における金谷武洋氏の主張参照)、また昨今のEffective Writingでは、無生物主語を使って能動態で記述することが推奨されているふしもあるが、とにかく、受動態表現に客観的記述であるとの印象を与えるレトリックがあることは間違いない。
ちなみに、日本語で無生物主語を使う能動表現を多用すると、無生物自体が動作主であるように見えてしまって非常に不自然になる。元来日本語には、「自然にそのように変化する」ということを示す優れた表現を持っているからである。

 客観性はまた、超越的視点へのシフト、すなわち、まず経験的主体を確立し、次に抽象的な主体、すなわちすべての経験的存在を平等に見わたす主体へと視点をシフトするレトリックによっても達成される(翻訳書、p.235〜236)。これは英語では非人称代名詞を用いるという手法を使うが、日本語では形式上、上記と同じ「受身表現」をとることになる。具体的には「私は・・・・・を観察した」ではなくて「…が観察された」という言い回しをとることだ。

 Gergenの指摘の中でもう1つなるほどと思ったのは、詳細をきわめた記述をすることによって自分の観察にバイアスがない、つまり客観的記述であらんとするレトリックである(翻訳書、253頁)。現代の心理学においては、この伝統は、臨床心理学、特に、事例研究や質的研究の報告に最もよく現れていると指摘されている。

 客観性vs主観性についてのGergenの主張については、また別の機会に考えを述べたいと思っているが、とにかく、論文執筆指導では、「客観的な分析をしなさい」と言っているつもりが、じつは単に「客観的記述であると受け止められるようなレトリックを駆使しなさい」という指導になってしまっているということは、ありがちなことであると思った。

 次回に続く。