じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 岡大・農場のケナフ。当初、オクラの畑だと思い込んでいた。しかし、いつまで経っても莢ができないし、やたが背が高くなって変だなあと思っているうちに、かつて私自身も育てたことのあるケナフであったことに気づく。高さは3メートル以上。右側の茶色くなったトウモロコシと比べると2倍以上の高さ。


9月22日(木)

【思ったこと】
_50922(木)[心理]メンタルヘルス講演会/精神疾患に関する語彙の蔓延と言説の増大サイクル

 1日前の話題になるが、学内で、保健管理センターの精神科医師による、学生のメンタルヘルスに関する講演会があった。この種の講演会や研修会は毎年いろいろな形で行われているが、私自身が拝聴したのは1999年3月17日以来、6年半ぶりであった。なお今回は、当時とは別の医師が講演された。前回同様、ここでは一般性があり、かつ不特定多数に公表しても問題ないと思われる部分についてだけ記すことにしたい。

 講演では、保健管理センター(通称「ホケカン」、現在の正式名称は「岡山大学保健環境センター 保健部門」や学生相談室を訪れた学生が30人に1人程度となっていること、うち、メンタルヘルスに関するホケカンへの来談者は、学部生の2.7%、大学院生の2.3%であることが報告された。もっとも、来談者のすべてが病気というわけではない。なかには、異性の友達ができなけれどどうしたらいいか、といった人間関係の悩みを持ち込む学生もいるという。ま、このあたりは、相談窓口への敷居の高さによっても大きく変動するところだろう。

 最近の相談内容には性差があり、特徴的なこととして、女子学生では、過食、自傷行為(リストカットなど)、過呼吸、いっぽう男子学生では引きこもりが多いということだが、統計的にどう裏付けられているのかは分からなかった。

 講演では、学生が自由に自己採点できる「やってみよう、こころのセルフチェック!」という診断テストが配布された。それぞれの質問項目について、「ないか、たまにある」「ときどき」「かなりのあいだ」「ほとんどいつも」という4件法で回答するものであり、20個の質問へのスコアが40点未満ならば「抑うつ傾向はありません」、40点台なら「軽い抑うつ傾向があります」、50点以上なら「うつ状態です」と判定される。私もやってみたところ34点だったので、ひとまず安心。

 ちなみにこの質問項目の中には「異性に興味がある」という質問があり、この質問に「ないか、たまにある」と答えると4点が加算、「ほどんどいつも」だと1点が加算される仕組みになっていた。そうか、異性に興味がなくなると、抑うつ傾向が高いと見なされることになるのか。

 このテストを含めて感じたのは、やはり精神科医師というお立場からだろうか、学生のちょっとした悩みや問題行動もすべて、疾病の予備軍として、医学モデルで扱おうという印象が感じられた。そこで、質疑の時間に、たまたま持参していた

●Gergen, K. J. (1994): Realities and relationships; Soundings in social construction. Cambridge: Harvard University Press. 【永田素彦・深尾 誠 訳 (2004):社会構成主義の理論と実践---関係性が現実をつくる, ナカニシヤ出版.】

の翻訳書の中の「精神疾患に関する言説の増大サイクル」のあたりを引用し、お考えを伺ってみた。読み上げた箇所はだいたい以下の通り。
  • 「精神病」の形態が、メディア、教育プログラム、公的会議などで描写されると、精神病の症状はモデル(典型)としての役割を果たすようになる。実際、人々は、いかにして精神病になるかを学習する。例えば、専門家の間で「拒食症」や「過食症」という用語が広まり、それが人々に知られるようになったために、一般の人々の間には「摂食障害」がなるかもしれない症状として広まった。あるいは、「鬱病」という用語が一般的になったために、失敗や欲求不満に直面したときに、人々は落ち込むのが当然であるとするような文化が育まれた。そのような文化の中では、もし失敗や欲求不満に対して「抑鬱」ではなくて「冷静」や「喜び」を表現するならば、かえって、いぶかしい目で見られる。まさにサッツ(Szasz, 1961)の言う通り、ヒステリー、精神分裂症などの精神障害は、日常生活に解決不能の問題を抱えている人々が「演じる」病人ステレオタイプなのだ。つまり、精神疾患は、逸脱者としての役割を演技することであり、規則から逸脱するための文化的ノウハウを知っていなければならない。シェフ(Scheff, 1966)も、同じように、多くの精神障害は、社会に対する反抗の一種であると述べている。シェフが言うように、まわりの人がうまく反応してくれてこそ、その逸脱者としての役割演技が、「精神疾患」としてラベリングされるのだ。
  • 人々の行為が、精神疾患の言語によって定義され形作られるようになると、精神衛生サービスヘの需要も増大する。カウンセリング、ウィークエンド自己充実プログラム、人格改造法などが、その代表である-----これらはすべて、「本当の自分ではない」という不安感から、人々を救ってくれる。あるいは、「近親相姦の被害」「共依存症」「ギャンブル狂い」などを支援する組織的取り組みも増える。そして、もちろん、組織的なセラピー・プログラムに参加したり、施設に収容される人も増える。その結果、「精神病」はどんどん普及し、それに伴って、精神衛生関連の支出も増大している。例えば、一九五七年から一九七七年の二十年間に、専門的な精神衛生サービスを受けたアメリカ人の比率は、十四%から人ロの四分の一以上に増加した...【以下略】
  • 二十世紀の最初の四半世紀には、精神衛生関連の予算はきわめて少なかったが、一九八○年には、精神病への支出は毎年二百億ドル以上を占め、アメリカの健康障害の中で三番目に高額になった(Mechanic, 1980)。一九八三年には、精神病への支出は、アルコール依存症と麻薬中毒を除いて、七三〇億ドルと推定されている(Harwood, Napolitano, and Kristiansen, 1983)。また、一九八一年には、アメリカの通院患者の二十三%が、精神障害であった(Kiesler and Sibulkin, 1987)。
  • 精神疾患に関する言説の増大サイクルの最後は、精神疾患に関する語彙のさらなる蔓延の段階である。人々が日々の問題を専門用語で構成し、ますます専門家の助けを求めるようになり、需要に応じて専門家の地位が上がるにつれて、より多くの個人が、日常用語を精神衛生の専門用語に翻訳することができるようになる。
  • 「心的外傷後ストレス障害」「アイデンティティ・クライシス」「中年の危機」などは、科学的進歩の「大きな物語」(Lyotard, 1984)の重要な産物、すなわち、精神衛生という科学による自作自演の「発見」なのである。同時に、新たな精神障害は、実践家に、著書の売り上げ、セミナー料、企業との契約、多くの患者、などの形で利益をもたらす。実際、「共依存症」「ストレス」「職業上のバーンアウト」などは、ちょっとした成長産業の名称になっている
  • 専門的に正当化された精神疾患の言語が社会に広まり、そうした言語によって人々が理解されるようになると、「患者」の数は増大する。一方、一般大衆は、精神疾患に関する語彙を増やし、多くの精神疾患用語を使用することを、専門家に求める。こうして、文化の内部で多くの問題が専門用語によって構成され、多くの専門家の支援が必要とされ、精神疾患の言説が再び増加する。
 学生でも、一般の成人でもすべてにあてはまることだが、専門的に正当化された精神疾患の語彙が社会に蔓延すると、ちょっとした悩みごとをすべて医学モデルで説明したがる傾向が出てくる。これによって、ちょっとした悩みは、自律的・能動的な方向では解決されず、逆に、言説によって固定化、ステレオタイプ化され、また、同様にステレオタイプな見方をしている周囲の人たちから共感されることでますますネガティブなスパイラルに陥る可能性がある。

 もちろん、中には緊急に治療を必要とする人も居るだろうから、早期発見と早期治療が必要なことは言うまでもないことだが、とにかく、一般社会の中で、医学的専門用語が流布・蔓延し、素人が医学モデルで行動を説明しようとする傾向については、そのメリットとデメリットを再考する必要があるように思う。同じことは、社会現象一般のラベリングについても言えると思う。