じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 昨年7月に誕生したベタの赤ちゃん(2004年7月10日の日記参照)のうち2匹(いずれもメス)が元気に育ち、そろそろ繁殖適齢期となったので、ペットショップでオスを買ってきて同じ水槽に入れてやった。
オスは、ペットショップ陳列用の狭い容器から広い水槽に移された上にメスを見つけて非常に喜び、さっそく、泡巣を作り出した。
写真の赤くてデカイのが、ペットショップで買ってきたオス。その右上が、この水槽で稚魚から育てたメス。写真上部は泡巣。


7月11日(月)

【思ったこと】
_50711(日)[心理]社会構成主義と心理学の新しいかたち(2)既存の心理学研究者は何をすべきか

 すっかり間が空いてしまったが6月19日の日記に引き続いて、「新しいかたち」について考えを述べようと思う。

 ここでは、ネット上でも閲覧可能な以下の2点、および、『あなたへの社会構成主義』の原本を引用資料として使わせていただくことにしたい。

【1】Kenneth J. Gergen著 東村知子訳(2004).あなたへの社会構成主義.ナカニシヤ.[An Invitation to Social Construction" 1999]
→紹介記事→→→あなたへの社会構成主義

【2】杉万俊夫(2005). 社会構成主義と心理学「心理学論の新しいかたち」(誠信書房)

 さて、6月19日の日記にも述べたように、社会構成主義の考え方そのものはずいぶん昔から紹介されていた。文献【1】の80ページには、
「社会的に構成された主観性」というこの考え方は、クーン(Thomas Kuhn)の著作『科学革命の構造』(一九六二)の中心テーマでもあります。クーンのこの著作は、今世紀最も大きな影響を与えた社会構成主義の本です。ある部分では、先人たちが生み出した関心の波に乗り、ある部分では一九六〇年代の革命的な動きに訴えかけたこの本は、一時期、英語で書かれたもの−−−聖書も含めて−−−の中で最も広く引用された本となりました。
と記されているように、私が学生時代にもけっこう話題となったことがあった。しかし、「社会構成主義」という名の下に心理学領域で注目を浴びるようになったのは、やはり、上記の【1】や【2】によるインパクトに依るところが大きいのではないかと直感している。

 この新しい動きに対して、私は特に、次の3点を提起しておきたい。
  1. 心理学研究者は、「社会構成主義」の主張にどう応えるべきか。それとも無視し続けることができるのか。
  2. 「社会構成主義」が重要であったとして、どのくらいの時間をかけて、どのくらいの本を読めば議論に参加できるようになるのか。
  3. 「社会構成主義」から何が期待されるのか。
 まず1.であるが、自然科学的な方法−−−実証研究−−−を重視してきた研究者は、どこかで立ち止まって、進路の再点検を迫られることになるかと思う。

 もちろん、「社会構成主義」自体は、実証研究を否定・攻撃するものではない。なぜなら、その考え方は原理的に
対抗するすべての立場−−−例えば、実証主義のような−−−に対して、われこそが真実だと主張することではないのです。社会構成主義は、どんな伝統や生き方にも、一定の価値と理解可能性があると考えます。もちろん、実証主義も例外ではありません。【文献1、141頁】
という立場をとっているためである。

 また、心理学領域のある分野において、全国の大学に地位ある研究者が揃っており、その分野に関わる学会が学術雑誌をきっちり刊行しているような場合、伝統的な方法を捨てずに生涯研究を続けたとしても、研究業績はそれなりに評価され、それによる就職・昇進が可能となり、研究資金もそれなりに配分され、最後には「○○研究の40年」(←25歳から研究活動を本格化して65歳で定年退職した場合)というような回顧録を出し、さらに地方私立大に再就職して、安定した研究者人生を全うすることができるかもしれない。

 しかし、そうは言っても、研究者たる者、常に自己点検が必要である。これまで積み重ねてきた研究が同僚のあいだでいかに高く評価されていたとしても、それが最善であるのか、時には、リスクを冒しても大きな方向転換を検討することも必要となる。

 じっさい、文献【2】の中には、伝統的な研究方法に対するいくつかの疑義、提言が示されている。それを受け入れて方向転換するにせよ、それを否定して自らの信念をつらぬくにせよ、とにかく、何らかの「態度表明」が求められていることは確かだと思う。

 文献【2】から、このことに関わる記述をいくつか以下に引用させていただこう。
  1. 従来の人間科学を振り返ると、理論言語も観察言語も定性的なものに偏りすぎている。観察言語の場合、エスのグラフィー的記述が大半を占めているし、理論言語の場合も、日常言語によるものがほとんどである。これには、心理学のカリキュラムで、基礎的な数学のトレーニングが不足していることも影響していよう。幸い、最近では、MATLABやMathematicaのようなパソコンツールが普及し、数学をビジュアルにエンジョイしながら学べるようになっている。これを利用しない手はない。
  2. リカート法の隆盛を目の当たりにしたら、おそらく、【リカートさんは】「穴があったら入りたい」と赤面するだろう。このような点数化に基づいて、さらには、多次元正規分布なる、およそ非現実的な仮定まで立てて因果パスを求める共分散構造分析など、パソコン遊び以外の何ものでもない
  3. t検定や分散分析を代表とする統計的検定手法は、あくまでも、一般教養として勉強しておかねばならない手法ではあるが、社会心理学や周辺分野では、ほとんど実用的ではない。
  4. 分散分析を代表とする手法は、ちょうど、自動車教習所で習う運転方法と同じである。もちろん、そのままの運転でうまくいく場合もある(例えば、生理学的実験、品質管理、農業試験、等の分野)。しかし、そうでない場合もある。
  5. おおざっぱに言うと、分散分析に代表される手法が有効なのは、「3シグマ法」が意味をもつ分野、つまり、「平均値の両サイド±3シグマ(標準偏差)」の区間推定が意味をもつ分野だろう。


 上に挙げたのは分析方法に関わる疑義、提言であったが、もっと根本的には、「内界−外界」パラダイムをどう捉えるのか、自然科学的方法(あるいは、論理実証主義的な発想法)で何を目ざすのかそれとも方針変更をせざるをえないのか、「自己」をどう捉えるのかといった問題がある。

 時間が無くなってきたので次回に続く。