じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

4月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る

[今日の写真] 4月17日は今日は夫婦で、蒜山〜大山〜とっとり花回廊へ行ってきました。日曜日にもかかわらずそれほどの混雑もなく、終日晴天にめぐまれ、春の大山を満喫した。サムネイルのリンク先に大山の写真7枚を掲載した。


4月17日(日)

【ちょっと思ったこと】

デモと暴動と世論の違い

 各種報道によれば17日、中国の少なくとも8都市で反日デモが行われたという。これに関しては、厳正に対処すべき問題がある一方、過剰に反応しすぎないことも肝要ではないかと思っている。ここでは
  1. デモと暴動とは違う
  2. 警備のあり方については厳正に対処すべき
  3. デモと世論とは違う
という3つの視点を強調しておきたい。

 まず、どこの民主主義国家においても、デモ行進という手段で意見を表明することは正統な権利として保障されなければならない。仮にデモのスローガンが誤解に基づくものや、何らかの政治的意図にはめられたものであったとしても、とにかく、ある集団が自らの意志のもとに正統な権利を行使することに対しては、それを止めろとは言えない。どうぞおやりください。その上で、正々堂々と議論しましょう、というのが成熟した民主主義社会における大人らしい受け止め方である。

 ちなみに、日本では、1960年代から1970年代にかけては数万人、時には数十万人規模のデモが年に何回も行われた。ところが、最近では、大都市で数千人規模以上のデモが行われることはきわめて稀となった。街頭を練り歩くという行為よりもネット上で世論を盛り上げることのほうが有効であると考えられるようになったのか、それとも単に、そこまで政治に関わるのはごめんだという人々が増えたのかはよく分からないが、醒めた人々ではなく冷めた人々ばかりになったとするとそのことのほうを問題視すべきではないかと思ってみたりする。

 さて、今回問題となったのは、デモの参加者の一部が日本総領事館の窓ガラスを割ったり、日本料理店や日系企業の建物を損壊させるといった破壊活動に転じたことである。これはどうみても、民主主義社会における正統な権利行使とは言えない。安倍幹事長代理も語っているように、条約では外国の大使館や総領事館を守る義務が課せられており、理由はどうあれ、それが果たされないようでは、中国は国際社会で信用を失墜するだろう。

 次に、デモというのは、必ずしもその国の世論を反映したものではないという点にも注意を向ける必要がある。むしろ大多数の市民の中の少数派である場合が多い。各種報道では、
  • 瀋陽でおよそ1000人が「日本の国連安保理、常任理事国入りに反対」などと叫びながら日本総領事館の前をデモ行進し、参加者の一部が石やインクの瓶などを投げたため、総領事館の外壁が汚れたり、乗用車が破損したりした。
  • 広州、東莞、深セン、珠海の4つの都市で数百人から1万人規模の反日デモが行われた。深センでは午前中から日系のスーパーが入居している商業施設の前に、およそ1000人が集まり、日本への抗議を行った(広州の日本総領事館によれば参加者は1万人規模)。
  • 福建省のアモイでは6000人
  • 香港では4000人規模
などとなっているが、これが、13億人の多数世論の反映であるのかどうかは疑わしい。また、老若男女を問わないあらゆる階層が参加する市民規模のデモなのか、一部学生だけのデモなのかにも注意を向ける必要がある。また、「総領事館前に1万人が集まり投石した」などと言われると、あたかも1万人が一斉に投石したかのように思われてしまうが、実際は数十人規模であったかもしれない(←もちろん、そういう破壊活動を取り締まらないとすれば重大問題だが)。

 上にも述べたが、1960年代後半から1970年代前半であれば、日本国内でも数千人から数万人規模のデモはけっこう頻繁に行われた。しかし60年安保の時に、当時の総理が「国会周辺のデモ?後楽園球場を見てみなさい。野球ファンでいっぱいじゃないか。私は声なき声に耳を傾ける」と言ったように、あの長大なデモの隊列でさえ、当時の日本国民の多数世論であったかどうかは疑わしいところがある。今回の件でも、日本製品不買を呼びかける若者を尻目に、日系スーパーに足を運ぶ大勢の市民が居たはずだ。

 反日デモの破壊的行為に対しては断固とした対処を要求する必要があるということを前提としつつ、デモのスローガンに耳を傾けるべき点があれば謙虚に受け止め、理不尽な要求や誤解に対しては冷静に反論をする、また、「中国人は...」とか「韓国人は...」というようにひとまとめにして感情的に反発するのではなく、もっと多様な視点で、共存に前向きな勢力との連携の道をさぐっていくことが必要ではないかと思う。