じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 昨日の日記で、赤い彼岸花が例年より早く咲いていると書いたが、白花のリコリスのほうもやはり一週間ほど早く満開になっている。昨年9月16日にはまだ花芽のみ、9月22日付で白い彼岸花の写真を載せていたから間違いない。台風の影響ということもあるまいなあ。


9月16日(木)

【ちょっと思ったこと】

学会参加報告は一週間以内に書き終えるべし

 ↓に記した通り、先週土曜日に開催された日本質的心理学会第1回大会の感想を、何とか一週間以内に書き終えることができた。毎度のことだが私は、年次大会、講演会、研修会などに参加した時は、その感想をできる限りWeb日記にまとめることにしている(こちらに、その記録あり)。何らかの事情でこれを怠ってしまうと、あとで何を聴いたのか全く思い出せなくなる。その内容をすっかり忘れてしまうくらいなら、学会など出ないほうがいい。時間とお金のムダである。

 じつは今回の場合も、9月3日〜5日に行動分析学会、そのあと10日に全学のFD研修会、さらに11日が質的心理学会、というように、いろいろな催しに次々と参加した。行動分析学会についてはわずか2回分、FD研修会のほうは何も書かないうちに質的心理学会に参加したため、せっかく得た情報がすっかり消え去ってしまった。多少無理しても、参加報告は一週間以内に書き終えることがゼッタイに必要であると思う。

 日記読みのほうにも書いたが、私は、12日からの日本心理学会の大会には参加しなかった。そんなに何日間も空けられないという学内事情もあったが、次から次へといろんな大会に出席してもそこで得た情報を消化しきれないというのが不参加の一番の理由である。自分で発表するならともかく、ただ顔を出すだけだったらそんなに何度も出る必要はない。その代わり、いったん出席した以上は、開催時間と同じくらいの時間をかけて、参加報告をまとめるべきである。学生にもそう指導している。

【思ったこと】
_40915(水)[心理]日本質的心理学会第1回大会(6)まとめ

 日本質的心理学会第1回大会の感想の最終回。

 大会の最後の企画として、17時30分から19時までは、ヤーン・ヴァルシナー(Jaan Valsiner)氏による招待講演が行われた。ヴァルシナー氏は米国・クラーク大学教授であり、『Culture and Psychology』の主幹をつとめておられる。アブストラクト集には関連サイトとして が紹介されていたが、残念ながら各サイトの所在を確認しただけでまだ内容は拝見できていない。

 さて、講演ではまず、質的研究というのは言葉だけではなく、タッチ、音、歌のようなものも含まれると指摘された。あとでも触れられたが、ヴァルシナー氏は、個々の要素を個別に分析するのではなく、「関係性」、「依存し合った事実」、「ゲシタルトあるいはホーリスティックな視点」ということを各所で強調されていた。このあたりは、午前中に川喜田二郎氏が言われた「分析よりも総合」という視点と通ずるところがあるように思った。

 ヴァルシナー氏は次に、例えば「3」とか、数直線上に縦線を引くようなのレイティングのような「量的表現」が実は関係性によって規定されるものであるということを、かなりの時間を割いて説明された。但しこれは、現象そのものが関係性によって変わるのではなく、我々がそれらを記号によって表象する過程でそうなってくるにすぎない。現象自体は混沌としており、データはそこから、ある枠組みによって構成されたものであるということを言われたかったのだろう。

 時間の関係で、後半部分の趣旨はよく理解できない部分があったが、ヴァルシナー氏は、量的研究と質的研究は相補的関係にあり、最終的には「General knowledge」として統合されると考えておられるようだった。

 両者とも、まずは名義尺度から出発する。量的研究では、それが、順序(順位)尺度、間隔尺度、比例(比率)尺度と進む。いっぽう質的研究では、システムのdetection、さらにシステムのre-compositionと進み、パーツの関係性やシステムの特徴が質的に記述される。それらの一例として、量的研究としての「IQ」、質的研究としてピアジェの研究を挙げることができる。

 以上が私が理解した範囲での講演の概容であった。量的研究と質的研究についてのこのような視点は、拝聴した限りでは、自然科学の研究にもそっくり当てはまるように私には思えた。但し、その場合の自然科学とは、絶対的普遍的な法則を見つけ出そうという意味での科学ではなく、あくまで、ある要請に基づいて、何かの目的のために問題解決をはかろうとする場合における自然科学的アプローチのことであるが。




 ということで、今回の大会は大盛況のうちに閉会した。最後に、非会員としての無責任な立場ながら、この学会の今後の在り方について思ったことをいくつか述べておきたい。

 まず、今回は、各界の著名な研究者を招請して、主として質的研究の方法論についての講演やディスカッションが行われた。しかし、いつまでも方法論ばかりを議論していくわけにはいくまい。やはり大切なのは、具体的な研究成果をアピールすることであろう。といっても、質的研究の成果は果たして、短時間の口頭発表やポスター発表で伝えられるものなのだろうか。

 具体的な研究についての評価をどのように行うのかも、疑問が残るところだ。小説家の作品であるならば、とにかく本がたくさん売れて、読者から感銘を受けたという声が寄せられれば、それだけで社会的に貢献した証しになるだろうが、質的研究ではそうはいかない。じゃあ、いろんな大学の研究者が、各自の興味・関心に基づいていろんな現象を質的に研究すればそれで成果と言えるのか。私はやはり、問題発見、さらには問題解決という道筋を示さないと、公的資金を投入する研究としては不十分ではないかと思うのだが、このあたりはいろいろと意見があってよい。

 それから、質的研究と言っても、普通は、図解や文章化という形で発表されることが多いようだが、ビデオ、映画、マンガ、アニメなどの媒体は発表手段としては使えないのだろうか。確かにこれまでは、「研究成果、イコール論文、イコール文章(一部は図表)」として表現されることが多かったけれども、質的研究においてはことさら、文章以外の媒体というのも追究してよいのではないかと思ってみたりする。


 このほか、現象学的アプローチとの関係、あるいは、「弁証法」などという言葉をそんなに気軽に使ってよいものか、などいろいろ疑問はあった。

 その一方、この世の中には、アンケート調査を量的に集計するだけでは到底解き明かすことのできないようなさまざまな現象が数え切れないほどたくさんあるのも事実だ。その場合、とりあえず、現場を正確に捉え、対象者のナマの声を聞き取ることはどうしても必要。しかし、そこからいかに価値のある情報を引き出せるかについて、しっかりとした研究方法は未だ確立していない。

 私個人としては、質的研究は、決して画期的で万能な研究法であるとは思えない。しかし、ある場面で「最善の研究法」であることは否定できない、だからこそ、少しでもそれを実りあるものにしなければと苦心する必要があるのだ。