じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] パイナップル百合(パイナップル・リリー、ユーコミス Eucomis)。 7月7日の日記に写真を載せたが、その後花が開き、見頃となっている。この品種の長所はなんといっても開花期が長いこと。花瓶に挿しても長持ちする。


7月27日(火)

【ちょっと思ったこと】

高校野球中継で予知夢の気分

 昼食をとりに家に戻りテレビのスイッチを入れたところ、テレビで高校野球地区大会の中継をやっていた。これを見て思わず、「あれーっ、そんなばかな? あれは一体何だったんだろう」と叫んでしまった。岡山大会はまだ準決勝、対戦しているのは岡山理大付属と岡山城東だったためである。

 じつは26日の夕刻、ネットで、自分の出身高校が何回戦まで勝ち進んだのかを調べたことがあった。その時に得たのは、出身校は3回戦で敗退、東東京の代表は「都立雪谷」、また、岡山地区大会は、倉敷工が倉敷高を破って甲子園出場を果たしたというものであった。翌朝、妻に

●今年は、岡山市内の高校は不振だったようだね。決勝は倉敷どうしで行われたようだ。

というと、妻もそうねと応える。それ以上何の疑問も持たなかったのである。

 そんなこともあって、準決勝の中継は、タイムマシンで数日前に引き戻されたような気分になった。というか、私がネットで得たのは予知夢、あるいはこれから先に起こることを予知するサイトであったのかもしれないという気分になってきた。

 しかし、新聞や関連サイトをチェックしてすぐに謎は解けた。「都立雪谷」や「倉敷工」が甲子園に出場したのは、昨年、2003年大会だったのであった。昨年は、阪神優勝ばかりが頭にあって、高校野球中継など一試合も観なかったことが遠因となっているようだ。
7/28追記]

 昨年の大会結果と取り違えた原因は、Googleによる検索方法にも一因があったようだ。
mnさんが都立国立高校のことを書いておられたことから、まず「高校野球西東京大会」で検索。ランキング第二位(第一位はyahooテレビだったのでパス)でこちらがヒット。そこから、右端の県別リンクをたどって、岡山大会の結果を閲覧。ちゃんと「優勝校 倉敷工 7年ぶり9回目」と書いてあったではないか。






国会内は喫煙者天国なのか

 28日朝5時台のNHK「おはよう日本」で、30日招集の臨時国会の国会会期をめぐって、自民、民主の国会対策委員長が協議するというニュースがあった。その際、国会内の小会議室のようなところで、政党幹部の一人がタバコの煙をくゆらしながら、他の幹部と談笑している映像が流れていた。過去の映像なのか、予備折衝なのか分からないが、とにかく、私の常識的感覚から言って、公共的な場でタバコを吸うなどというのは言語道断。昨日の日記にも同じようなことを書いたが、とにかく、口先では「思いやり政治」や「弱者保護」などを叫んでも、受動喫煙への配慮に欠ける行動があった場合は、その政治家は失格だ。

 それにしても、国会内では健康増進法はちゃんと守られているのだろうか。私の大学ではすでに全館禁煙が実行されているというのに、国会内では分煙すらできていないのだろうか。記者、秘書、清掃業者などの中には非喫煙者も多数いるはずだが、そんなところで、地位・権力のある者がタバコの煙をまき散らすのはまことに遺憾。今後もウォッチングを続けているつもりだ。

【思ったこと】
_40727(火)[心理]「活きる」ための心理学(15)関係性重視の働きがい〜内山節氏の著作から〜

 自治体主催の生涯学習講座の4回目(7月24日実施)の講義メモの続き。

 スキナーの講演録紹介、さらに行動内在的強化の重要性について論じたあと、内山節『自由論---自然と人間のゆらぎの中で』(1998年、岩波書店、 ISBN4-00-023328-9)を引用しながら、働きがいの必要条件について考察した。

 内山節氏は1950年生まれの哲学者。こちらや、こちらに紹介記事がある。私自身は上掲の書について、行動分析学会ニューズレターに書評を書いたことがあった。今回の話の内容も、その書評に沿ったものであった。

 要するに、ここで取り上げたいのは、現代社会において、働くということはなぜ最高の生きがいにならないのか、という疑問である。内山氏はそれに対して、
  1. 労働力不足の時代に就職先を求めた人と、労働力過剰の時代に求職活動を おこなった人とでは、可能性が大きく異なることにも反映されるように、 近代的雇用では、労働を開始する前に、偶然と不安に満ちた近代的雇用に、 身をゆだねる必要性が生まれる。[六章、101〜103頁]。
  2. 今日の社会では、何が必要で、何が不必要なのかもわからない。労働によっ て生み出される商品が人間の暮らしにとって本当に必要なのかどうかは分 からない。それゆえ、労働をとおして、人間の社会に有用な活動ができる かどうか分からない。社会に貢献するといった労働の感覚が消えれば、労働は個人生活のための手段になっていく。一面では労働を収入を得るための手段にし、他面では自分の働きぶりに自己満足するための手段にする。 すなわち、ひたすら我がために、私たちは働くようになる。こうして労働 は、エゴイズムに支えられた活動へと変貌する[六章、103〜105頁]。
  3. 経済活動のなかでは、仕事をするのは誰でもよい。かけがえのない一人の 人間として仕事をしているつもりなのに、経済活動のなかでは、 代替可能 な一個の労働力にすぎないことを知らされる[六章、104〜105 頁]。
  4. 労働が不自由なものになっていると感じさせるものは、単純労働や肉体労 働そのものにあるのではなく、その労働と全体の労働との関係が協調的に営まれているかどうかとか、その労働と自分の形成との関係や社会との関係が、どうなっているのかという方に原因がある[六章、 111〜112頁]。
といった、明確な解答を示している。

 ここでは、働きがい喪失の原因として、行動内在的強化の不足のほか、近代的雇用の中で労働が個人生活のための手段となる一方、その労働と全体の労働との関係が協調的に営まれているかどうか、あるいは、その労働と自分の形成との関係や社会との関係がどうなっているのかが分かりにくくなっている点が挙げられている。

 昨日の日記にも述べたが、災害救援ボランティア活動の場合は、少なくとも、ボランティア活動が、全体の救援活動とどう協調的に営まれているかが明確になっている。一人の人間が一日にできることはごくわずかであっても、協調的営みの確信があれば、充実感が生まれてくることは確かであろうと思う。

 ところで、最近しばしば取り上げられる競争原理や成果主義はどうなのか。自己実現の場であるようには言われても、協調的営みは保障されない。次回に続く。