じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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木蓮。江戸東京たてもの園内の写真(4/2撮影)。小学5年の時、卒業生を送り出すために歌った歌の中に
木蓮の花、咲いてる庭で、靴の紐を直してくれた 6年生、...という歌詞があり(一部記憶不確か)、木蓮の花を見るたびにそのことを思い出す。 |
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【ちょっと思ったこと】
ハングルに関心をもつ 4月3日の日記で放送大学“韓国語1 「文字と発音1」”という番組を視たことを書いた。その後、車を運転中にたまたまNHKラジオの外国語講座「ハングル」の1回目を聴いた。今すぐには無理としても、定年後に暇ができたらぜひとも学んでみたい言語である。 放送大学の1回目で感じたのは、文字の規則性と区別の難しさである。人工的に作られた文字であるハングルは規則性がしっかりしているという点では、日本語の平仮名や片仮名を遙かに上回る合理性を備えているが、ちょっとした横棒の有無や位置の違いで全く違う母音を表すというのは、区別が付きにくいようにも思える。老眼の私には特に見えにくい、 ラジオのほうで面白いと思ったのは、子音の発音である。私の理解が正しければ、ハングルでは「カ」と「ガ」の発音は、同じ文字で表記され、その文字が言葉の先頭にあれば「カ」、そうでなければ「ガ」と発音されるというこであった。このことでちょっと疑問に思ったのだが、中央線で「この電車は中野駅に行きますか?」と尋ねる場合、「なかの」は「ながの」と発音されるのだろうか。となると「長野駅」と混同されることは無いのだろうか。 余談だが、最近では、言語と国家は別という理由から、「国語」や「母国語」の代わりに「日本語」、「母語」を使うことが多くなっているという。「ハングル」は言語ではなく文字の呼称であり、できれば「朝鮮語」や「高麗語」と呼んだほうが適切ではないかと思うが、南北朝鮮の対立があり、採用されていないのだろう。大学の授業では最近は「韓国語」という呼称が多く使われているようだが、今述べた理由から「○○国語」というのはできれば使わないほうがいい。同じ理由で「中国語」も「漢語」あるいは「中文」としたほうがよいと思っている。 |
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【思ったこと】 _40406(火)[心理]「快適さ」の客観性 4月7日のNHKおはよう日本「まちかど情報室」で、快適さを生理的に測定する種々の取り組みが紹介された。手のひら(発汗など)、唾液(アミラーゼが多いとイライラ)、鼻の温度変化など。これらを活用することで、電動マッサージ椅子や空調機、リラクセーション機器などを「より快適に」使用することができ、すでにこれらを研究する連絡組織もできあがっているという。 このことに関して、ある開発者は「これからは主観ではなく、効果を実証していかないと、商品を売ることができない」というような話をされていた。確かに世間には、有効性の疑わしい健康機器類や各種の「セラピー」が氾濫している。そういう中にあっては、単なる「使用者の喜びの声」ではなく、科学的に効果の実証された機器を求めるニーズは多いものと思われる。番組ではさらに、これらの生理指標を利用することで、言葉での意思表示が難しい高齢者に対しても、快適な環境を保持することができると言っていた。 こうした研究が進むこと自体は大いに結構だと思うが、いくつか疑問も残る。 まず、使用者の言語報告は常に「主観」であり、生理指標は常に「客観」なのかという問題だ。使用者が主人公である以上、本人が「気持ちがいい」と報告している状態を生理指標で否定するわけにはいかないし、逆に、生理指標でどのように良い結果が示されたとしても、本人が「嫌だ」と言っていれば無理矢理押しつけるわけにはいかない。結局のところ、これらの生理指標で明確な不快状態は検知できるとしても(←例えば、寝たきり高齢者にとって、エアコン設定温度や布団枚数が不快をもたらしていないかどうかのチェック)、より高いレベルの「快適さ」を実現するツールとしては限界があるのではないかと思ってみたりする。 第二に、「快適さ」はどのくらいのタイムスパンで測るべきかという疑問がある。瞬間的に「快適さ」が確認できても、長時間保持できなければ意味がない。また、快適さはしばしば軽度の苦痛や不快のあとに出現するものであることにも留意する必要がある。例えば、サウナ風呂→水風呂→風呂上がりという三段階を考えた場合、サウナ風呂の高温や水風呂の冷たさは決して快適とは言えない。しかし風呂上がりの快適さが何物にも代え難ければ、あえて不快を求めるだろう。山頂に立った時の爽快感も同様であり、登頂に至る苦労が無ければ決して得られることはない。そういう意味では、短時間、刹那的な「快適さ」ではなく、日々の生活時間全体の中で、どのような質の快適さを求めていくべきかが一番の問題となる。 第三に、「快適さ」の個体差がある。上にも述べたように、明らかに不快な現象は万人共通に存在するであろうが、その対極の「質の高い快適さ」を実現できる環境は必ずしも共通ではない。生理指標の平均値に有意差があるなどと言われてもそれだけで健康機器を買うわけにはいかまい。ま、商品を売る立場からは、何でもよいから科学的なデータを引用し、とにかく売れればそれでよいということになるのだろうが。 長期的なスパンでの「快適さ」は結局のところ、行動への強化力に帰着する。真の客観的指標は、言語報告でも、刹那的で受け身的な生理指標でもなく、それに関わる行動がどれだけポジティブに強化されているかによって測られるべきものであると思う。 |