じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 大学構内のミモザが満開となった。まだまだ最低気温が氷点下となる寒さが続いているが、春はもうすぐ。


3月4日(木)

【思ったこと】
_40304(木)[心理]批判的思考の認知的基盤と実践ワークショップ(10)査読者の目で論文を読むこととクリシン

 2月8日(日)に京大で行われた表記ワークショップの感想の続き。各種の校務に追われて連載が飛び飛びになってしまっているが、開催日から1ヶ月以内には何とかして完結したいと思っている。

 さて、11番目と12番目は「批判的思考の教育:論文の指導」という大テーマであった。前にも書いたが、今回のワークショップは教育学部系の心理学者が中心ということもあり、現場での実践報告や教育指導方法についての発表が多く含まれていた。このあたりは文学部系心理学と異なる点である。

 このうち11番目は、沖林氏の「学術論文読解における批判的思考−学習指導法の検討−」という話題提供であった。先行研究の論文を引用するのはよいのだが、いまひとつクリティカルな視点が足りず結論を鵜呑みにしてしまうというのは、私の大学の卒論研究でもありがちなことだ。そういう意味では、文献講読や演習などでどうやって「批判的な読み」力を養成するのかが大きな鍵になっている。

 発表時間の関係で詳しい内容は理解できなかったが(※後日、ご本人から詳しい資料をお送りいただいたが、著作権の問題もあるのでここでは紹介できない)、研究の概略は
  • 文章内容に対する熟達度が学術論文の批判的な読みに及ぼす影響
  • 課題についての査読のガイダンスの配布が学術論文の批判的な読みに及ぼす影響
  • 査読のガイダンスとグループによるディスカッションが心理学系の学術論文の批判的な読みに及ぼす影響
  • 目的性を持ったディスカッションが初心者の学術論文の批判的な読みを促進するかどうか
といった内容で構成されていた。

 沖林氏が指摘されているように、同じ論文を読む場合でも、「レポート作成の参考文献として読む」場合と、「演習などでの文献紹介の準備として読む」場合、「討論の材料となっている文献を読む」場合など、目的や状況が異なれば、同じ読み手でも観点が異なってくることは十分に予想される。ここでは特に、査読者の観点、つまり「査読者である」という役割意識と「批評を行う」という目的意識を明確化することにより、刺激文の読みに批判的思考を適用することの可能性が検討された。

 その中で面白いと思ったのは、論文の原文の一部(刺激文)を実験者が意図的に改変し、その部分に対する批判数をカウントしたところであった。もっとも、その場合、原文をどう改変するかによって、批判の目の向け方も変わってくる。わざと誤字脱字をつくればその指摘となるし、結果に基づいた考察の導き方をあえて曖昧にすればその部分に目を向けることになる。沖林氏が操作した改変は後者に近い部分であったようだが、論文の全体構成や、研究の背景などまで立ち入って「批判力」をみることは、実験の制約上、難しいのではないかと思われた。

 今回の話題提供で思い出したのだが、私が学生・院生の頃の演習や研究会では「批判的な読み」が活発に行われていたと思う。発表者が雑誌論文を紹介すると、参加者がよってたかってケチをつける。「この論文は殆ど価値がない」、「間違いだらけだ」、「展望がない」という意見が大勢を占めることもしばしばで、ひょっとすると心理学の研究はみな欠陥があるのではないかと思いたくなるほどであった。しかしそういう経験は、じっさいに研究者の仲間入りをする中でずいぶん役立ったと思う。おそらく、大学や大学院で行われている授業は、特に意識されなくても、結果的に批判的思考の養成に役立っているはずである。ただし、それはあくまで特定分野内にとどまるものであり、一般的な物差しで成果を測ることは難しいとは思うが(2月12日の日記参照)。

 討論の時間にも少々発言させてもらったが、通常、査読者として論文を読む場合は、その中味の信頼性、内的妥当性、オリジナリティ等にしぼって採択の可否が検討される。しかし研究者が論文を読むときに求められる「クリシン力」としてはもう少し大きな視野が求められると思う。つまり、その論文の外的妥当性、発展性、あるいは研究の背景となる流れ自体の意義といったものだ。もっとも、上にも述べたように、実験研究や調査研究としてそのような「大きな視野のクリシン」を調べることは原理的に困難かもしれない。次回に続く。