じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] [今日の写真] 講義棟の外壁に作られたアシナガバチの巣(写真左)。炎暑がこたえるのか、巣の真下の日陰に働き蜂たちがひしめいていた。写真右はその周辺の花壇。蜜はいっぱいある。
この壁には、毎年いくつかの巣が作られるが、外敵に襲われるのか、蜂どうしで争うのか、大部分は巣が完成されないうちに空っぽになってしまう。今年はこの巣だけが残った。
蜂の巣でも人間の家庭でもそうだが賑わっている時こそが最高に幸せな時に違いない。まもなく新女王が誕生し、冬になる前にはそれ以外のすべての蜂は死んでしまう(2001年12月9日の日記参照)。あの賑わいはもう戻らない。我が家も、子どもたちが独り立ちすれば同じように殺風景になるのだろう。


9月2日(火)

【思ったこと】
_30902(火)[心理]「育てる」は行動か?

 先月の学会で私の教室の学生が「育てること」が生きがいにどう結びつくかというような内容で発表をしたところ、「育てるというのはどういう行動のことを言うのか」という質問が出されたという。ここで改めて「育てる」ことの意味を考えてみたいと思う。

 「育てる」というのは単独の行動ではない。「育つ」対象があり、その生育をサポートするための一連の行動のセットがあって初めて成り立つのである。

 例えば一年草を花壇で「育てる」と言った時は、種を蒔き、水をやり、周囲の雑草を取り、脇芽を積み、支柱を立てるという一連の行動がある。それと一体となって、一年草は、生育し、花を咲かせ、実を結ぶ。それら双方向の関わりを、人間の側の能動的な行動としてとらえたのが「育てる」という意味になる。

 人間の赤ちゃんを育てることと、親を介護することには、おむつを取り替える、体を拭く、食べ物をあげる、寝床を替える、(ベビーカーまたは車椅子を押して)散歩をするといったように、外見的には共通性のある行動が含まれている。しかし、赤ちゃんを育てるとは言っても、要介護の親を育てるとは言わない。対象が「育つ」かどうかに依存して、「育てる行動」と「育てないがお世話をする行動」が分けられていく。このことにも留意する必要がある。




 行動は、殆どすべての場合、対象との関わりにおいて成り立つものである。いっけん自分一人だけで「行動している」ように思われる「走る」といった行動も、実は、大地が存在し重力が働くという前提のもとで、「大地を蹴る」という働きかけによって成り立っているのである。さらに言えば、毎朝ジョギングを楽しむ人の多くは、朝のすがすがしい空気や小鳥のさえずり、沿道の美しい緑といった外界との関わりの中で強化され続けているのだ。

 人間や動物の行動の大部分は、外界の特定対象との関わりを前提としてなりたつものであるが、そういう中でも、特に能動的な操作の対象となる環境の一部はオペランダム(操作体)と呼ばれている。「ネズミがレバーを押す行動」はレバー無しには決しておこらない。「ピアノを弾く」、「車を運転する」、「TVゲームで遊ぶ」なども、オペランダム無しでは起こりえない。「育てる」という行動の場合に育てられる対象がオペランダムであることは間違いないが、すでに述べたように、それらは一方通行的な操作対象にはなりえない。自力で育つ力があってこそ、育てる行動のオペランダムになりうるのである。




 9月に入って、法人化後の教育体制がいろいろと議論されるようになってきた。ほぼ確実に言えるのは、文学部の伝統でもあった少人数教育をこのままの形で維持するのは困難であるということ。一教員あたりの学生数をもっと増やさなければやっていけないだろうということだ。そうなってくると、「学生を育てる」という行動も質的に変化せざるをえない面がある。いくら面倒見のいい教員でも、個々の学生に手取り足取りの指導をするなどということは不可能になる。まず「育つ」学生が存在し、それをサポートする形で行われるのが「学生を育てる教育」である。

 とはいえ、少子化に伴う定員割れが深刻な一部の私学の中には、放っておいたら全く育たない学生ばかりが集まる大学があるらしい。幸い岡大の学生の場合は、今の時点では自力で育つ力だけは持っているようだが、今後どうなるかは分からない。育つパワーを与えるための方策を検討しておく必要はありそうだ。