じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 昨年4月2日の日記に掲載したキバナカタクリが再び花を咲かせた。在来種とは異なる北米産。


4月16日(水)

【ちょっと思ったこと】

初授業であせった私

 水曜1限目は、教養科目の新年度最初の授業であった。授業自体は月曜からすでに4コマ分に出講しているがこれらはすべて講座内の顔見知りの学生相手の専門科目。教養科目のほうは受講生が200人以上であることに加えて全員初対面ということでどうしても緊張してしまう。

 さて、この授業では、ノートパソコンを持ち込み、パワーポイントファイルを大型スクリーンに投影しながら話を進める計画となっている。昨年度と同じ講義室でもあり、各種設備には熟知していたので、5分前ギリギリになってからセットを始めた。

 ところが、各装置の電源を入れ、パソコンを起動し、各種設定ボタンを押してみたもののいつまでたってもスクリーンに画面が現れてこない。これはエライことになったと焦ったが、顔色を変えず、先にプリントを配りますと言ってから、いろいろと調整をしてみた。

 このノートパソコンは、「液晶ディスプレイのみ」、「外部ディスプレイのみ」、「液晶+外部ディスプレイ両方」という3種類の切り替えができるようになっているのだがに、この切り替えがうまく行っていないことに気づく。で、いろいろと調べてみたところ、なっなんと、原因は








ディスプレイ・ケーブルをパソコンにつなぐのを忘れていたためであることがわかった。ま、多少焦ったとはいえ、定刻より5分遅れで授業を始めることができてよかったよかった。

【思ったこと】
_30416(水)[心理]質的分析と行動分析(9)行動随伴性に注目した場合のメリット〜「環境ボランティアは自己犠牲的か」を例に考える〜

 今回は調査面接法や言語報告の問題を考える一環として、2002年に刊行された『質的心理学研究』第1号掲載論文の中から環境ボランティアを調査した安藤(2002、『環境ボランティアは自己犠牲的か〜活動参加への動機づけ』、質的心理学研究, 1, 129-142.)の研究をとりあげ、もし同じ対象を行動随伴性の視点から分析したらどうなるか検討を加えてみることにしよう。

 まず、安藤(2002)は論文の序論で、環境ボランティアについて
  • 環境運動による環境が保全されるなどの利益は,運動を行った人のみが得られるものではなく,地域の全員が得られるという点で非排除的であり,社会的ジレンマとしての側面を持っている。つまり環境ボランティアに参加することはコストがかかる行為であるため,自分は参加せずに他の人が活動してくれる方が個人としては得だということになる。この考えは,人間は自己利益の最大化を目的として行動するという,「合理的」な人間観にもとづいている。
  • もし全員がそのように「合理的」に考えるとすれば環境運動に参加する人は誰もいなくなるはずだが,実際には上述のように環境運動は大きな広がりを見せている。彼らは,何を求めて運動に参加しているのだろうか。
  • 自己の利益を度外視した利他的な動機にもとづいて参加しているのか,社会的ジレンマとしての構造が認知されていないのだろうか。
というように問題を立てている[長谷川により一部改変・省略]。主タイトルに含まれる「自己犠牲的」という表現も、おそらく、「自己利益の最大化を追求しない」という意味で用いられているものと思われる。

 同じ現象をもし行動随伴性に基づいてとらえるなら、次のようになるだろう。
  1. 環境ボランティアへの参加は、何らかの行動随伴性により強化されているはずだ。その意味では「自己犠牲的」なる表現は妥当ではない。利他的な結果も場合によっては好子になるはずだ。
  2. 「環境ボランティアに参加することはコストがかかる行為」かどうかは、参加行為が何によって強化(また弱化)されているのかを調べてみない限りは断定できない。あるいは、環境ボランティア以外にやりたい行動があるかどうか、それらをすることと物理的にに競合するのかどうかも調べる必要がある。
  3. 「そのように『合理的』に考えるとすれば環境運動に参加する人は誰もいなくなるはず」と記されているが、行動を維持するのは「考え」ではなく、あくまで直接効果的な随伴性である。
  4. 「自己の利益を度外視した利他的な動機にもとづいて参加しているのか」と記されているが、そうであったとしても行動の原因は「利他的な動機」ではなく「利他的結果が好子となる」と考えるべきだ。
  5. 「社会的ジレンマとしての構造が認知されていないのだろうか。」と記されているが、構造が認知されているだけで行動が弱化されるとは考えにくい。
 次に実際の聞き取り内容について。安藤(2002)では
  1. どのようなきっかけで環境ボランティアを始めたか
  2. それまで環境問題にどれぐらい関心があったか
  3. 環境ボランティアを始めてから環境問題に対する考え方が変わったか
  4. 自分のやっている運動は, 環境問題の解決に効果があったと思うか
  5. 環境ボランティアに参加することによって, 自分は何を得たと思うか
の5項目が分析の対象とされていた。紙数の都合で、本稿では4.と5.についてのみ考えを述べることにする。

 4.について安藤(2002)は「活動の有効性」というタイトルで考察、「今回のインタビュー回答者は、地球規模での環境問題を解決するのは難しい,と認めつつも個々の活動の効果については比較的肯定的にとらえる、という二面性が見られた」と結論していた。行動随伴性の視点を入れるならば、これは、直接効果的な結果がどの程度伴ったのかと考えることにつながる。環境ボランティアで個々人の活動がもたらす貢献は「チリも積もれば山となる」ような、累積的に意味のある結果しかもたらさない。杉山ほか(1998)が指摘しているように、「1回1回の行動に対する即時の結果が小さすぎる」行動は直接的には強化されないのである。ではどうすればよいか。何らかの形で微小な結果を目に見える変化に置き換えるか、もしくは、「この行動は将来的に○○の達成につながる」というルールに基づいて、ルールに一致する行動をとったことに対して何らかの付加的な強化を与えている可能性がある。安藤(2002)は「二面性」と結論したが、むしろ、「直接効果的な結果が小さすぎることに対して、どのような付加的な強化やルール支配が行われているのかを聞き出すべきであろう。

 次に5.の質問だが、これは、参加行動を強化している好子のうち、対象者が言語化できる部分を把握することに有用である。安藤(2002)では、得られた言語報告を「ネットワークの広がり」、「自己の有能感」「対処有効性」「活動に関する技能」の4カテゴリーに分けて考察されている。

  • 行動随伴性の視点を入れるなら、このうち「ネットワークの広がり」というのは、対人的な接触を通じて得られる社会的好子(励ましの言葉、笑顔など)であり、その具体的内容はもっと細かく聞き出せたのではないかと思われる。
  • 「自己有能感」として記されている内容は複合的であるが、当人の諸行動の中で、好子出現随伴性により強化されている部分が、好子消失阻止や嫌子消失阻止の随伴性で強化されている部分に比べて相対的に高まることは、そのような言語報告をもたらしやすい可能性がある。
  • 「対処有効性」に関しては、質問4.と同じ視点をもつことができる。「ほんの少ししか変わらないじゃなくて、ほんの少しでも変わったということが大事だ」という言語報告は、「少しの変化」に対して付加的な強化を与える仕組みを自分で確立したと考えるべきである。
  • 最後の「活動に関する技能」は、当人の行動が精緻化され、かつ行動リパートリーが増えることによって、今までなかった強化機会が与えられるようになったと考えるべきだろう。

 なお、安藤(2002)では、独立したカテゴリーとしては分析していないと断った上で「活動の楽しさ」についても言及している。「楽しいから活動している」というのは循環論的説明に過ぎないが、「楽しさ」として語られる具体的結果を聞き出すことができれば、行動内在的な好子の把握に繋がるはずである。

 以上、安藤(2002)の研究を事例として、もし同じ対象を行動随伴性の視点から分析したらどうなるか検討を加えてみた。この種の調査で得られる発話内容は、カードに記された上でKJ法(川喜田, 1967)により分類・整理されることが多いが(中澤, 2000)、それだけでは、分類者の主観、分類者が複数であれば共通した主観で類似度を決めてしまう恐れがある。行動随伴性という概念的枠組みに基づいて分類することで、より生産的な結論が導ける可能性がある。