じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
大学構内では数少なくなった旧・日本軍の戦跡。この横にあった赤レンガの建物(旧・学生部)はだいぶ前に取り壊された。この記念碑の後ろには、なぜか、桜ではなく桃の古木がある。 |
【ちょっと思ったこと】
最近の学生は黒くなった? 4月8日は入学式が行われ、午後には、学科の新入生オリエンテーションがあった。今年度前期は、たまたま学科幹事の番がまわってきたので、司会役をつとめた。 最近何となく変わったなあと思うのは、学生の髪の色である。一時期は、茶色や金色に染めた学生がかなりの比率を占めており、夕食後に近くのスーパーに行くと、金髪の若者が過半数を占めていて、いったいここはどこの国かと思うほどであった。こういう変化があるなら、正確にデータをとっておけばよかった。 オリエンテーションの時、ある教員が口にしていたが、そういえば、新入生の服装も黒っぽいものが多かった。入学式の時は地味な服装、卒業式は派手な衣装というのは別に不思議ではないんだが、何か変わってきたと思うのは気のせいだろうか? 「勝者は正しい」 米英によるイラク攻撃はいよいよ最終局面を迎え、近いうちに「勝利宣言」が出される見込みだという。いろいろなニュースを見て思うのは、もはや、戦争には、真実も倫理も人間愛も無い。「勝つことが正しいことだ」の一言に尽きるということだ。3/28の日記でとりあげた斎藤隆夫氏の演説の一部を、再度引用しておこう。 かの欧米のキリスト教国、これをご覧なさい。彼らは内にあっては十字架の前に頭を下げておりますけれども、ひとたび国際問題に直面致しますと、キリストの信条も慈善博愛も一切蹴散らかしてしまって、弱肉強食の修羅道に向って猛進をする。これが即ち人類の歴史であり、奪うことの出来ない現実であるのであります。この現実を無視して、ただいたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、日く国際正義、日く道義外交、日く共存共栄、日く世界の平和、かくのごとき雲を掴むような文字を列べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことかありましたならば現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことは出来ない。善良な人々が一瞬のうちに命を絶たれることは断じて許されない。だからこそ多くの人々はテロの撲滅を願っているのである。ところが、ひとたび宣戦布告をすれば、民家を「誤爆」して多くの犠牲者が出たとしても「一般市民の犠牲者が出ないように最善の注意を払っている」と言い訳すればそれでよい。勝者であり続ける限り、決して戦争犯罪に問われることは無いのである。 政府要人を暗殺した犯人は捕らえられ、極刑に処せられる。しかし、その場合でも、文明国家であるならばちゃんと裁判が行われ、容疑者にも弁明の機会が与えられる。ところがひとたび戦争となれば、要人やその関係者、時には妻や子供たちの頭の上にも容赦なくミサイルが撃ち込まれる。強者は平然と弱者のリーダーの殺害を宣言し、殺害の成果を誇示する。 かつて北米大陸には、白人側からインディアンと呼ばれた先住民族がおおむね平和な生活を送っていた。白人たちがその土地を奪い強大な国家を作り上げていく過程でも、「勝者は正しい」がまかり通っていたに違いないと思いつつ、無力な「日本とわたし」を情けなく思うこのごろである。 |
【思ったこと】 _30408(火)[心理]質的分析と行動分析(4)心理学研究における「質」 澤田・南 (2001、質的調査〜観察・面接・フィールドワーク[南風原朝和・市川伸一・下山晴彦 (編).『心理学研究法入門:調査・実験から実践まで』.東京大学出版会] )は、心理学研究における量と質を次のように区別している[長谷川による要約引用]
なお「数字,数量で表現された量的データに対して,言葉の形式によって表現されたものを質的データとよぶ」という区別については、少なくとも「言葉の形式」とは何か、さらには言語行動一般について厳密な検討が必要であると思う。なぜならば、見方によっては数字や数量も言葉の形式の1つであるからだ。合わせて、客観性の基準を何に求めるのかもカギとなるだろう。 市川(2001、[南風原朝和・市川伸一・下山晴彦 (編).『心理学研究法入門:調査・実験から実践まで』.東京大学出版会, pp19-62.])は、研究のタイプと質的データの関連について次のように述べている。 .....,行動観察記録,会話記録, 内省的な言語報告などのような記述的なデータを質的データとよんでいる.質的データは,カテゴリーに分類するなどして,量的データにして分析することもあるが,むしろ量には還元しにくい内容的な側面に着目して考察がなされることにその特色がある. つまり、心理学において「質的研究」という場合には、単に「質的データを扱う研究法の総称」ではなく、「量には還元しにくい部分に注目して、情報的価値のある研究を遂行していく、という積極的な意味が含まれている。したがって、質的データでしばしば問題にされる信頼性と妥当性についても、必ずしも数量化や実験的方法で補完するスタイルはとられていない。 なお、市川(2001)も指摘しているように「質的=探索型研究」、「量的=検証型研究」という二分法はかならずしも絶対的ではない。多変量解析においては量的データを扱いつつ探索的な研究を行う手法が多種多様に開発されているし、質的データに基づいて、ある仮説にあてはまるような事例を示したり、ある理論を覆すような反例を挙げる形の検証研究は可能である。但し、市川(2001)が言うように、質的データから仮説を検証していく方法は心理学においてはむしろ疎んじられていたきらいがあったことは確かであろう。 |