じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 京都・大阪を訪れてから早くも一週間が経った。下鴨神社の紅葉はまことに見事だったが、今はどうなっているのだろう。





12月7日(土)

【ちょっと思ったこと】

不景気な土曜日

 土曜日は昼前から冷たい雨が降り続いた。19時頃、息子と行きつけのラーメン屋に行ったところ、なっなんと誰もお客が居なかった。食べ終わって店を出る頃に、親子連れが1組入ってきただけ。店員は4人ほど居たようだが、これで経営は成り立つのだろうか。帰り際、別のラーメン屋や中華料理屋もガラス越しに覗いてみたが、どこも閑散としていた。




3.5インチフロッピーディスク

 12/8の朝日新聞科学欄に、フロッピーディスクの開発話があった。3.5インチフロッピーディスクは日本発の数少ない世界標準であり、その第1号はソニーが米国で売り出した世界最小の英文ワープロ用に開発されたものであったという。

 フロッピーディスクと言えば、私がコンピュータを使い始めた1980年前後には、5.25インチが主流であり、PC-9801シリーズのVMにもドライブが2個搭載されていた。当時圧倒的シェアを誇っていたワープロソフト「一太郎」は、Aドライブにシステムディスク、Bドライブに作業ディスクを入れて使うという仕組みになっていた。3.5インチの登場後もしばらくは外付けのディスクドライブで対応していた。

 記事によれば、現在の3.5インチFDが国際標準化機構(ISO)の規格になったのは1984年。1995年以降は需要が激減しているものの、依然として年間13億枚のレベルにあるという。デスクトップパソコンでは、ドライブを標準装備している機種がほとんどではないかと思う。

 私自身は、少し前まで愛用していたデジカメ(ソニーのMavica)で中古のFDを媒体に使っていた。このほか、今でも、学生から受け取るファイルはFDに保管されたものがほとんどであるし、自分自身も紀要原稿等をFDに入れて提出している。

 とはいえ、その使用頻度はめっきり減ってきた。一番の理由は、モバイルハードディスクのほか、メモリースティックやSDメモリーカードなどが、どのパソコンでも使えるようになってきたためである。メモリーカード自体の低価格化に加えて、USB接続のマルチ対応のカードスロットが5000円〜8000円程度で登場してきたことも大きい。こう考えてみると、3.5インチフロッピーディスクの使用を激減させたものは、CD-ROMでも各種メモリーカードでもなく、USBではなかったのかと思ってみたりする。
【思ったこと】
_21207(土)[心理]日本ダイバージョナルセラピー協会設立セミナー(3)「できること」探しの意義

 12/1に行われた表記のセミナーの感想。あれからもう1週間が経ってしまった。年をとったせいだろうか。このところ、セミナー等の参加報告を一週間以内に書き上げることが難しくなってきた。さて、12/3の日記では、あくまで私見であると断った上で、ダイバージョナルセラピー(Diversional Therapy、以下DTと略す)には次のような決定的な特徴があるように思う、と述べた。
  1. 個の尊重
  2. 自立の尊重
  3. 能動的な「できること」の重視
  4. 生活に変化をもたらすために設計された、依頼者への意識的な介在(intervention)
  5. 全人的な視点
  6. 「assessment(事前評価、審査、生活史や欲求についての調査)」→「planning(計画・設計)→「implementaiotn(実行)」→「 valuation(事後評価)」という4段階のシステマティックな反復
 今回は、このうちの3.と4.についてさらに詳しく考えてみたい。

 昨年6月にオーストラリアで話を聞いた時にも思ったことだが、DTの発想は行動分析と非常に似たところがある。それは、あくまで個人本位で「できる行動」探しに取り組み、その行動が強化される環境を設計するという視点であった。今回のセミナーでも、次のようなフレーズが使われていた。
  • 人生のそれぞれのライフステージにおいて自由時間に何をしたのか。それぞれの行動は人生にどういう意味を付け加えたのか。
  • DTは目的を持った遊び。
  • 「〜ができる」で生活を定義づける。
  • 若い時と同じではないが、年老いても必ず「できること」がある。できないことを教えるのではなく、できることに意味づけをする。
 こうした視点は発達障害児の「できること」探しとよく似ている。「できないこと」を医学モデルで解釈していても何も進展しない。障害の原因が遺伝的なものであろうと、後天的なものであろうと、とにかく、その時点で何ができるようになるのかを探し、適切な介入法を考える。この積み重ねによって、行動のリパートリーが増え、自立を高めることができるのだ。




 もっとも、発達障害児と高齢者の場合では事情は相当に異なる。障害児の場合はライフステージとしてはまだ出発点にあり、自立のための準備がどうしても必要となる。多少ガマンをしても望ましい行動を増やしていったほうが、けっきょくは本人にプラスになるだろう。従って、そのプロセスでは、状況に応じて、キャンディやガムのような好子を付加的に随伴させて、行動を強化してやる必要も出てくる。

 これに対して、高齢者の場合、特に痴呆症のお年寄りの場合には、何十年も先のための準備のために努力することはあまり意味が無いだろう。それよりも、「今」に少しでも価値を見出すことが大切だ。従って、適応や自立のために「望ましい」行動かどうかではなく、当人が本当に楽しめる(=行動内在的な好子となっている)行動を探し出し、それが適切に発せられる環境を工夫することが大切になる。上記の「目的を持った遊び」というのはそういうことを言うのだと思う。




 さて、12/3の日記でも述べたことだが、グループホーム入所者が、買い物、料理、配膳、後かたづけ、掃除、洗濯などの雑事に参加することはどう位置づけられるのだろうか。画一的に論じることはできないが、オーストラリアを含めて欧米的な労働観からは、、雑用的な仕事は個人の自由を束縛する行動であり、そのような時間を最小限に減らして余暇を楽しむところに価値を見出すという考えが出てくるかもしれない。しかし、日本の場合は、しばしば、痴呆症のお年寄りが家事に参加してから快活になったというような事例がしばしば伝えられている。周囲の世話にならずに自立した生活をしていることを誇りにしている方も多いことを考えると、歌やゲームよりは、「役に立つ」ことが示せるような活動のほうが効果的ではないかという気もしてくる。

 もっとも、仮に10人中9人は家事を楽しむが、1人は自分の趣味に興じたいという気持ちを持っていたとして、その1人が、家事をせず、かつ他の9人に気兼ねせずに趣味ばかりやっていられるかという問題もありそうだ。

次回に続く。