じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

12月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る

[今日の写真] 岡大事務局(旧日本陸軍司令部)の解体工事が始まった。本来なら1カ月前にすべて取り壊されているはずであったが、文化庁との協議により正面玄関部分が移築保存されることになった。





12月3日(火)

【ちょっと思ったこと】

41冊目の天文年鑑を買う/5万7000年ぶりの火星大接近に夢ふくらむ

[今日の写真]  生協のブックショップで、2003年版の『天文年鑑』を購入。この『天文年鑑』(誠文堂新光社発行)は1949年創刊、2003年版は55冊目にあたるというが、私の蔵書で一番古いのは1963年版(11歳の時)、この本は毎年買っているので、41冊目の購入ということになる。10年ごとに並べたのが右上の写真。まさに私の人生そのものである。

 天文年鑑には前年に話題となった天文現象等の写真が掲載されるが、今回の表紙を飾っているのは、言うまでもない。2001年11月19日未明に観測されたしし座大流星雨の写真であった。本文にも「2001年しし座流星雨の総括」が2頁にわたって設けられており、「多くの人々が歴史的瞬間を目撃する生き証人になった。」などと記されていた。私自身も生き証人の仲間入りができて本当に幸せである。

 皆既日食、大彗星(ヘールボップ彗星)、オーロラ、流星雨、...と、天文マニアの夢を一通り体験できてこれでもう思い残すことはないと思っていたが、2003年版によれば、今年は火星の歴史的大接近の年にあたるのだそうだ。この大接近は79年ごとに起こるもので、79年以上長生きした人でも一生に一度しか体験することができない。しかも、今回の大接近は前回1924年の時よりもさらに2万kmほど近く、ここ2000年の中ではもっとも近づくことになるらしい。さらに、ビーシュらの計算によれば、クロマニヨン人の見た火星よりも大きく、5万7000年ぶりであるというから驚きだ。

 では、どのくらいに見えるのか。天文年鑑によれば、8月27日の最接近時の視直径は25”11であるという。同じ2003年の木星の最大視直径は赤道方向で45”もあるから、それには遙かに及ばない。小型望遠鏡で見ても赤い円盤に黒い縞が見える程度なのだろう。そのことよりむしろ、肉眼で見た時の明るさがマイナス2.9等星になるということのほうがスゴイ。これは2003年の木星の最大の明るさであるマイナス2.6等を上回る。科学が未発達な時代であれば、不吉な赤い星が現れたとして大騒ぎになったことだろう(←ホンマに不吉でなければよいのだが...)。

【思ったこと】
_21203(火)[心理]日本ダイバージョナルセラピー協会設立セミナー(2)個の尊重の意義

 昨日の日記で、あくまで私見であると断った上で、ダイバージョナルセラピー(Diversional Therapy、以下DTと略す)には次のような決定的な特徴があるように思う、と述べた。
  1. 個の尊重
  2. 自立の尊重
  3. 能動的な「できること」の重視
  4. 生活に変化をもたらすために設計された、依頼者への意識的な介在(intervention)
  5. 全人的な視点
  6. 「assessment(事前評価、審査、生活史や欲求についての調査)」→「planning(計画・設計)→「implementaiotn(実行)」→「 valuation(事後評価)」という4段階のシステマティックな反復
 今回は、このうちの1.と2.についてさらに詳しく考えてみたい。

 まず1.だが、アデレードの州立高等教育機関「Douglas Mawson Institute of TAFE」の教室にこんな言葉が記されていたことを思い出した(こちらの報告参照)。
  • The final choice of an activity, or of a way of doing an activity, must always be taken 'as much as possible by the individual' so as to maximise his/her positive experience of the activity.
  • Leisure is ------An integral part of an individual's well being; it is a subjective, esperiential phenomenon, which does not neccessarily have to be defined in terms of the what, when, etc. of a specific event.
 要するに、高齢者にとっての楽しみはあくまで個人本位でなければならない。音楽療法が良いから全員で歌うとか、園芸療法が良いから全員で花を育てる、という画一的、平均値人間型のとらえ方は捨て去らなければならない。もちろん、歌が好きな人や園芸の好きな人は居るであろうし、そういう人にとっては紛れもなく生きがいになる。しかしだからといって、嫌いな人にまで義理でそれらに参加させたり、不参加の人をほったらかしにするようなことがあってはならない。

 また、このことから求められる視点は、高齢者のセラピーは多様であるべきだということ。「万能な医療効果」の実証にエネルギーを費やすより、質の高いアクティビティの実現そのものに価値を見出すことのほうが大切であると思う(こちらの論文参照)。

 今回のセミナーで聞いた話だが、国内のある高齢者施設で、音楽療法士の指導のもとで合奏が行われた。熱心にタンバリンをたたいていたお年寄りが居たので後で感想を聞いてみると、本人は別にそれを楽しんでいたわけではない。ここ(施設)に置いてもらっているし、せっかくエライ先生が来てくれたので、じつは義理でそれに参加したのだという。あるいは照れ隠しにとういう発言をされたのかもしれないが、とにかく、ある人が楽しいことが全員にとって楽しいということなどあり得ない。個人個人のニーズを十分に聞き取り、それを実現する形で行われるというのがDTの基本である。




 次に2.だが、自立というのは、身辺の自立、さらには精神的な自立という意味にもとられる。TV番組ではしばしば、グループホームの痴呆症のお年寄りたちが、自分たちのできる範囲で料理を作ったり、買い物に出かけたり、盛りつけの手伝いをしたりするシーンが紹介されている。これは、別段、人手不足だから入所者を雑用に駆り出しているわけではない。若い頃に得意だったことを再現する機会として、そして、誇りをもって暮らすためにセラピーの一環として取り入れていると言ってよいだろう。その証拠に、そういう自立的な活動に参加することで笑顔が戻り、いろいろな能動的はたらきかけが増えたという事例がいくつも報告されているという。

 おそらくDTの一環としても、日常生活を支える行動の一部として炊事に参加する行動が取り入れられているに違いない。但し、これも上に述べたように、家事がセラピーであり続けるとしたら、それはあくまで「しなくてもよいが、してみると楽しい」というレベルにとどまる。それをしなければご飯が食べられなくなる、というような阻止の随伴性で制御されるべきではないと思う。




 以上、「個の尊重」について述べてきたが、こちらの報告にあるように、アデレードの州立高等教育機関「Douglas Mawson Institute of TAFE」の教室には
No person is absolutely independent; we are all social beings and thus dependent on others to varying extents and in various ways throughout our lives.
というスローガンも掲げられていたことを付記しておく。セミナーでも指摘されていたが、いま入所しているお年寄りの大半は教育勅語世代であり、どちらかと言えば「個」を抑え、他人に世話をしてもらうことを申し訳ないと考える人が多い。戦後世代の数が増えれば入所者のニーズは多様化し、個人主義的な傾向が強くなってくる可能性もある。