じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] アパート近くの空き地に咲く芙蓉。もともと平屋建ての官舎があったが、だいぶ前に取り壊され、その後ずっと空き地になっていた。来年1月上旬より、新しい官舎の建設が始まるということなので、この芙蓉はまもなく根こそぎ抜き取られる運命にある。そうとは知らず、すくすくと枝を伸ばし、花を咲かせ、種をつける準備をしているのがいじらしい。





10月17日(木)

【ちょっと思ったこと】

「雨雲があるので雨が降る」

 毎朝5時55分頃の気象情報を見てから散歩に出ることにしているが、今朝は奇妙な現象が起こっていることに気づいた。大きな移動性高気圧が日本列島をスッポリおおっているにも関わらず、関東南部だけが雨になっているのである。伊豆諸島からスジ状に連なる雨雲が関東南部に向かっているようだが、ひまわりの映像でもはっきりしないほどの局所的な現象である。一般向けには解説しにくいのだろうか、5時台の番組では「雨雲があるので雨が降っています」としか言っていなかった。しかしこれでは循環論法で説明になっていない。なぜ高気圧の中心部に近い所にあのような雨雲のスジができるのか、気象マニアにも分かるような解説が求められる。
【思ったこと】
_21017(木)[電脳]モバイルディスクとPCカードスロットの「相性」その後/どっちがホント?

 10/13の日記の続き。前回の日記で、最近もっぱら愛用している東芝の2GBモバイルディスク(カード型のハードディスク)が、機種更新のために購入したSOTECパソコンのPCカードスロットでどうしても認識されない、と書いた。東芝とSOTECのサポートセンターに電話したものの解決には至らなかったが、以前、デスクトップでPCカードを読むために使っていたI・O データの「Card Dock」があったのでこれを外付け。とりあえず当該のモバイルディスクの読み書きができるようになった。

 さて、今回、上記とは別に、メルコの5GBのモバイルハードディスクを新たに購入したので、さっそく当該のパソコンで動作確認をしてみたところ、トラブルのあったPCカードスロットでも、問題なく読み書きのできることが分かった。とすると、STOECのスロット自体には欠陥が無かったことになる。では、なぜ東芝の2GBでは読めなかったのだろうか。

 1つ考えられるのはフォーマット形式の違いである。仕様表を見ると、ディスク容量が1GBと2GBの製品では「FAT16」となっているのに対して5GBでは「FAT32」と記されていた。専門的なことは分からないが、SOTECの該当機種のスロットはFAT32のみに対応しているのではなかろうか(但しBIOS設定変更オプションには16ビットに変更する機能はない)。いずれにせよ、この5GBモバイルディスクを使う限りにおいては、外付けのカードリーダーは不要となった。


[写真] [写真]  ところでこの5GBディスクにはもう1つ大きな謎がある。パッケージにはメルコ製、「MADE IN JAPAN」と記されている(写真左)のに対して、ディスク本体の裏側には、なっなんと、「TOSHIBA」のシールが貼ってあるではないか。しかも、そのシールには「MADE IN PHILIPPINES」と記されている(写真右)ではないか。たぶんOEMによる生産であろうと好意的に解釈されるが、外箱が日本製で本体がフィリピン製とはどういうこっちゃ。まさか「外箱だけ日本で作りました」という意味ではなかろうなあ。

※このことで初めて気づいたが、フィリピン共和国はPHILIPPINEではなくPHILIPPINESだったのね。
【思ったこと(2)】
_21017(木)[心理]授業と卒論・修論指導について考える(3)同僚の公開授業を拝聴する

 文学部では、今年度から教員による相互の授業参観が制度的に実施されるようになった。前期7月には、私自身の授業と、思想文化論Iおよび演劇学特講、後期は、本日の文化心理学のほか、考古学の授業が公開されることになっている。

 今回の公開は、同僚の教員による心理学の授業であったことと、実質1回目(前週は院入試で休講)であったため、前期末の授業に比べると特に分かりやすい内容であった。

 7/5の日記にも書いたように、教員による授業参観というのは、教員向けの教養講座ではない。実際の講義を拝聴し、参考になりそうな長所は自らの授業にも活かすこと、また、もしアドバイスができれば当該の教員に伝えることによって相互研鑽をめざすことが目的となっている。

 このうち、一般性のありそうな事柄をちょっとだけ書かせていただくと、この先生の場合、開始から55分後にいったん3分間程度の休憩時間を挿入しておられた。その時間はトイレに行ってもよいし、雑談してもよい。もしこれによって、受講に集中できる効果があるならぜひ取り入れてみたいものだ。どういう経緯で休憩時間を挿入されたのか、ぜひ伺ってみたいと思う。

 このほか、板書の仕方や、OHPによる資料提示のタイミングも大いに参考になった。もっとも、私自身が開講している授業の場合は黒板の前にスクリーンが降下し、そこにパワーポイントファイルを投影して授業を行っているため、黒板とスクリーンの併用はできないという問題がある。それから、この先生の場合、OHPの枚数はごく少数に限られていた。これによってノートがとりやすくなるメリットがあるように思えた。




 さて、以下は、私自身が学んだ内容についての要約。まず導入部で、この先生自身が米国に留学された時のエピソードが語られた。興味深いのは、一日に何度も顔を合わせるたびに知り合いから「How are you?」と言われること。これは、日本語の「御機嫌いかがですか?」ではなくむしろ「やあ?」という挨拶に近いそうだ。但し、米国人の挨拶では、まずyou、次いで I というように、他者と自分がはっきり区別され向かい合う。これに対して、日本人同士の挨拶は、お天気や共通に抱えている話題(例えばまもなく試験があるという話題)が取り上げられる。日本人の場合はおそらく、youと I を明確にせず共有部分を増やして融けあうところに特徴があるのだろう。

 このほか、御留学先の大学食堂のサンドイッチのパンや中味の選択においても、徹底的に個人の好みが尊重されるというエピソードなどが語られた。もっとも岡大の生協でも総菜物は、各自が好きな料理を好きな分だけお皿に盛りつけて重さで支払っているし、また、ラーメン屋でも麺の堅さや味の濃さを指定できる店があることを考えると、サンドイッチの中味を選択できることが直ちに個性重視の文化の象徴であるかどうかは今ひとつ確信が持てないところがある。




 次に本題に入って、社会心理学の中での文化心理学の位置づけが語られた。文化心理学の歴史はまだ浅く、おおむね20年ほど前に始まったという。そういえば、私が学生・院生の頃には、まだそのような言葉は耳にしなかったように思う。もっともあの頃、大学内の社会心理学の研究会に参加していた大学院生・学部生たちは、いまでは全国に散らばって大活躍しておられる。先見の明があったということか。

 授業ではさらに、Berryによる「“普遍性のおしつけ”ではなく“普遍性を引き出す”」という警鐘について説明された。ここで再検討されたのは、発達心理学者Kohlberg(1971)による道徳性の発達段階についての研究である。“愛する妻の命を救うために、ぼろ儲けしている薬やから特効薬を盗む行為」を扱ったハインツのジレンマという事例についての受け止め方を調査してみると、日本人では、西洋人より早い年齢から人間関係・共感・感情に基づく意見が多く出されるが、「共同社会における尊敬」、あるいは「自らが選択する倫理的原理」を理由とした判断は少ない。このあたりからも文化を研究する意義が読みとれる。




 ユニークな「授業時間内休憩」に続く後半では、「社会を忘れた心理学」が取り上げられた。認知革命の影響を受け、社会心理学においても一時期は、個人を認知主体(=独立な実在)としてとらえ、社会→個人という片方向の影響のみを検討する傾向があった。しかし、小学校のクラスで「先生の質問の答えが分かっているにも関わらず手を挙げない」という現象がしばしば見られるように、予め定められたルールではなく、社会と個人で相互に構成される規範というものが存在する。このあたりの発想は、「S-R」ではなく「能動的な行動とその結果」のインタラクションや相互強化を重視する行動分析の発想と酷似しているようにも思えた。




 授業のまとめの部分では
  • さまざまな文化に生きる人々についての研究を通じて 多様な文化に共通する心理傾向と 文化によって異なる傾向とを明らかにする。
  • 人間を「文化的存在」として捉え直し、文化とそこに生きる人間の心との相互構成的な関係について明らかにする。
という目標が掲げられた。このあたり、あまり生半可なことは言えないのだが、行動分析では、おそらく「文化」もある種の行動随伴性のセットとして扱われることになる。「質問の答えが分かっているにも関わらず手を挙げない」というのは、単に「教室の文化」にとけこむということではなく、手を挙げた場合にどういう結果が伴うのか、という阻止の随伴性で説明することになるだろう。この視点のメリットは、「集団の圧力」という場合にも、「周りに合わせることで強化される」というポジティブな場合と、「周りに合わせないと何かが失われる場合/罰が与えられる場合」というネガティブな場合を区別できる点にある。

 もっとも、行動随伴性を個々バラバラに論じていたのでは、個人の局所的な行動変容しか説明できない。随伴性のセットについて、共通性や多様性を論じるということになれば、結果的に「文化」概念が導入されたことになるかもしれない。




 なお、授業の終わりのほうでは、「何に見える?」というスキーマの役割についての事例が紹介されていた。その中で、虹の色の数が日本は7色、米国は6〜7色、ロシアでは5色という証拠が、メアリーポピンズの原作や、ロシアの公園の開園時間案内看板の絵をもとに説明されていたのが面白かった。「虹は七色」というのは記憶の「Magical 7」を反映したデジタル化であろうと思っていたが、けっこう文化差があったのね。

 それと、「僕はキツネ、君はタヌキ」(←聞き取りのため不確か)の受け止め方が、うどん屋と学芸会と動物園では全く異なるというのはおっしゃる通りのことであるが、これもまさに、行動分析の言語行動観と一致する発想だ。私自身は、「みず!」が、喉の渇いた人、ハイキング中に水たまりを発見した人、英語の授業で「water」を訳せと言われた人、国語の授業で「水」の読みを聞かれた人、忍者が合い言葉として「火」に対して「水」と答えた場合などで異なるという事例を出すことがある。スキナーの場合は、これらをまず、タクト、マンドなどと区別しているが、「キツネ、タヌキ」の例においても、厳密には、刺激制御上の違いと、スキーマの違いの混在を分離したほうがスッキリするのではないかと思う。

 公開授業は本日1回限りということであったが、後日語られるという「文化実践的アプローチ」、「土着心理学」、「進化ゲーム・アプローチ」、「関係性アプローチ」については非常に興味がある。毎回聴講させていただけないのがまことに残念だ。