じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 農学部農場の蕎麦畑。9月中旬に種まきをしていたので、いまから蒔いても育つのかと思ったが、そもそも蕎麦というのは成長の早いのが取り柄。山間地で育てられるのも、寒さに強いというよりは、寒くなる前に短期間で収穫できることにメリットがあるためなのだろう。





10月4日(金)

【ちょっと思ったこと】

拉致生存者の人生をどうポジティブに評価するか

 北朝鮮に拉致され現在も生存が確認されている被害者たちについて、政府は4日、たとえ被害者本人が帰国を希望しなかったとしても早期帰国させるよう北朝鮮に求めることを決めた。政府は、これまで、本人の意思を優先することにしていたが、ここで方針を転換したことになる(10/5朝日新聞記事による)。非合法的な手段によって、ほんらい日本国内に存在しているはずの日本人が外国に存在しているという現実が発生している以上、本人が北朝鮮への亡命でも希望しない限りは、政府として帰国を要求するのは当然であろうと思う。

 しかし、9/28の日記に書いたように、拉致被害者にも数十年に及ぶ人生がある。拉致され脅されながら命令どおりの仕事をさせられてきたとはいえ、それぞれの人は、「絶望の中にあって、少しでも生き延びる道をさぐる」努力を続けてきたに違いない。強いられたとはいえ、その中で最善をつくして生きてきたことを肯定的に評価しなければ、彼らの人生は100%台無しにされてしまう。

 もう1つ、「洗脳ではなくマインドコントロール」ということにも配慮しなければなるまい。隔離された所で長期間にわたり情報がコントロールされ、特定の行動だけがポジティブに強化されるような生活を続けた場合、その人は、強制ではなくあたかも自分の自由意思でそれを選んでいるような錯覚をおこすことになる。これが、カルト宗教の勧誘で問題とされるマインドコントロールである。しかしそれが数ヶ月や数年ならまだ取り返しがつく。このように長期間にわたった場合にどうすればよいのかは私には分からない。極端な場合として、もし本人が「拉致自体は自分にとって不幸なきっかけであったが、その後の努力により築いた今の人生は最高に幸せである」と考えていたとして、周囲から「あなたは拉致によって、人生の大半を台無しにされた。せめて残りの人生で幸せを取り返しなさい」と説得することが良いことかどうか、大いに考えさせられるところだ。

 とにかく悲しく辛いのは、生存者の帰国が実現したところで、また、いくら加害者を罰したところで、失われた年月は決して戻らないこと、つまり現状回復はゼッタイにできないということである。家族を含めて、被害を受けた人たちが、自分の人生を肯定的に評価できるように配慮をすることもまた必要であると思う。
【思ったこと】
_21004(金)[心理]有意水準20%にしたほうが心理学はオモロクなるかも

 昨日の日記では、
有意差検定というのは、「差があるかもしれない(効果があるかもしれない、明らかに違いがあるかもしれない」という対象について、灰色領域の中からほぼ確実にクロと言える部分を見つけ出す作業である。対象をクロとシロと灰色に区別する作業ではないし、灰色をクロっぽい灰色と、シロっぽい灰色に分ける作業でも決してない。
という統計検定の大前提から、

●「有意ではないが傾向差(p<.10)があった」などと結論し、それに基づいて自説に有利な考察を展開するのは好ましくない

と主張した。

 しかし、同じく昨日述べたように、

●そもそも統計学でいう有意水準というのは便宜的に定めたものであって、1%でも5%でも10%でもよい.....

のであって、これは
  1. 本来は偶然であるのに差があると判断してしまう誤り(第一種の過誤)
  2. 本来は差があるのに、偶然であると判断してしまう誤り(第二種の過誤)
(←母集団の差、心理学の議論の上では実際には何らかの効果や本質的な差)

という2つの過誤を勘案しながら、メリットとデメリットを天秤にかけて決めるべきものである。

 例えば、ある健康食品に重大な副作用があるかもしれないという疑いが生じた時は、使用群と不使用群で20%水準の有意差があればとりあえず使用を禁止すべきであろう。なぜなら、誤って有害でないと判断した時に想定される被害よりも、誤って安全であると判断してしまった時の被害のほうが重大であるからだ。

 これに対して、同じ食品に癌の抑制効果があるかどうかを判定する場合には、もう少し水準を厳密化する必要がある。なぜなら、それを手に入れるにはそれなりのコストがかかるし、すでに有効性が確認されている他の治療法に代えてそれを採用するには、それなりの根拠が求められるからである。

 では心理学の研究の場合はどうだろうか。いっぱんに学術雑誌に採択されるためには、統計的に有意差があるような結果を出さなければならない。それゆえ、研究業績の競争が厳しくなればなるほど、研究者たちは、有意差を出すことに莫大なのエネルギーをそそぐことになる。

 そこで、もし、有意水準を5%ではなく20%に変えてみたら、研究の進め方にどんな変化が起こるだろうか。

 当然のことながら、もし20%に変えればその分だけ、帰無仮説は棄却されやすくなる。これに伴って、「本来は偶然であるのに差があると判断してしまう誤り」も増大してしまうことになるが、じゃあ、そのことで心理学の研究は重大な損失を被るだろうか。

 まず、マイナス面として考えられるのは、研究の情報的価値の1つである確実性(こちらの4.4.参照)が低下し、いろんな珍説が登場してくる恐れである。血液型性格判断などでも、やれ「A型には長電話する人が有意に多かった」とか、やれ「B型は頻繁に電話をかける人が有意に多かった」(←いずれも仮想)というような調査結果がどしどし報告されるようになるだろう。透視能力の検証実験なども、有意であったことを理由に投稿されるかもしれない。

 しかし、仮にそういう報告がポコポコと現れてきたとしても、一貫した傾向や体系性が示されなければ学問としては発展しない、上記の例で、「A型には長電話する人が20%水準で有意に多かった」という結果が偶然によるものでないとするなら、「じつはB型のほうが長電話する人が20%水準で有意に多かった」というような結果は殆ど報告されないはずである。もし2種類の相反する報告が同程度に出てきたら、あるいは大半の調査で「20%水準でも差なし」と報告されていたら、けっきょくは、全体として偶然的変動の範囲であろう、「有意差」が出た結果だけをつまみ喰いして自分に都合のよい解釈をするのは無意味だ、というように総括されることになる。

 であるならば、個別の研究における有意水準を20%に設定しても、心理学が間違った方向に発展することはまずない。デメリットがあるとすれば、個人あるいは研究グループ内において、偶然に生じた結果を意味のあるものと勘違いしてさらに精力をそそぎ、結果的に不毛な結果に終わる恐れが大きくなるというだけのことだ。

 いっぽう、有意水準を20%に設定するということにはポジティブな面もあるはずだ。5%水準の場合よりも「有意差」が出やすくなることによって、被験者集めに要する労力は大幅に緩和されるだろう。これにより研究者は、次のテーマにより早く取り組むことができ、総合的にみて生産的な研究ができる可能性もある。どっちにしたって、1回の実験や調査だけで研究を体系化することはできない。いろいろ条件を変えて実験したり、対象を変えて調査していけば、偶然的な偏りのようなものはトータルで排除できるのではないかと思ってみたりする。

 ま、いずれにせよ、「傾向差」などというエエ加減な造語を使って自説に有利な論を展開するのはヤメテもらいたいものだ。そういう言葉を使うぐらいだったら、堂々と「有意水準20%で有意差があった」と主張すべきである。