じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 羽根の模様はツマグロヒョウモンの雌にそっくりだが、大きさが一回り小さい蝶を見つけた。図鑑によればヒメアカタテハ。花はテンニンギクの黄花。





9月28日(土)

【ちょっと思ったこと】

拉致問題解明とプライバシー保護

 日本人拉致の事実関係調査と被害者家族の訪朝準備を行う日本政府の調査団が28日午後、ピョンヤンに到着したという。また、それより前の27日、小泉首相は拉致された被害者の家族らと首相官邸で面会し、「拉致問題解明を最優先にして取り組んでいきたい」と言明した。

 拉致問題は、国民の安全と日本の主権に関わる重大問題であり、その全容を解明することはぜひとも必要であろうと思うが、このことにより被害者あるいは被害者家族のプライバシーが不必要に晒されることのないように配慮を願いたいものである。

 これはあくまで想像の域を出ないが、拉致工作の被害者の中には、日本国内あるいは海上で殺害された人、入国後、服従を拒否して殺された人、機密を守るために殺された人たちがかなり含まれているに違いない。被害者の拉致後の処遇や死因を固有名詞を出して公開することは、場合によっては、重大なプライバシー侵害になるおそれがある。

 拉致された人たちは、北朝鮮にとって何かしら利益になるような働きをすることで生かされてきたのかもしれない。それが万一、スパイ工作やテロに間接的に協力するものであったとしても咎めるわけにはいかない。このあたりは、8/27の日記で取り上げたユダヤ人のカポ(ナチスドイツの強制収容所で、囚人長やブロック長として、結果的に虐待や虐殺に荷担してしまったユダヤ人たち)のケースと似ている。「絶望の中にあって、少しでも生き延びる道をさぐる」というのは、当然の選択肢であろうと思う。

 国内で行方不明となった人たちの中には、拉致の犠牲となった可能性のある方がまだまだ居られるらしい。ならばなぜもっと早く申し出なかったのか、という声もあろうが、実際、身内がそういう状況に置かれた時にはそう簡単に動けないのではないかと思われる。なぜなら、結局のところ、警察はそんなに頼れるものではないし警察の中にだってスパイがいるかもしれない。政府は個人の命よりも国益や外交カードを優先する。もし下手に騒ぎ出すと、生かされていた被害者が抹殺されてしまう危険が大きい。現に、近況を綴った手紙が届いたあとで殺された疑いのある被害者も居る。このほか、行方不明となった原因が拉致でなかった場合、そのプライバシーがすべて晒されてしまう恐れも大きい。

 よく言われることだが、日本では、容疑者のプライバシーには配慮が行き届いている反面、被害者やその家族のことは平気で好奇心を満たす対象にしてしまう風潮がある。拉致解明にあたっては、十分な配慮が必要である。

【思ったこと】
_20928(土)[心理]英語教育と日本語文法を疑う(10)「英語が使える日本人」育成教育についての異論

 前々回の日記(9/26)では、政策的課題として語られた英語教育推進の提言を種々引用してきた。その論調をおおざっぱにまとめると次のようになる。
  1. 英語は事実上世界の共通言語であり、国際化・IT化の波の中で日本が生き残るためには、どうしても英語を使いこなす能力が必要である。
  2. 日本人の英語力は外国に比べて劣っている。
  3. そのためには、 英語教育の量と質の改善が必要。
しかし、そのいずれにおいても、慎重な検討を要する数々の問題点が残されている。その主な異論は

(A)国際語としての英語の役割についての異論
  • 世界の共通言語として英語が使われることについての異論
  • 国際語としての英語と、ネイティブな英米語は使い分けるべきであるとの主張
(B)日本語と英語では外界の認識のしかたが本質的に異なっているとの主張 (C)英語力の現状認識についての異論
  • 英語能力検定試験の国際比較は証拠として不十分であるとの主張
(D)英語教育の達成内容に関する議論
  • 英語能力検定試験で測定されるリスニングや日常会話能力よりも、むしろ従来型の入学試験で問われているような英文読解力こそ大切であるとの主張
  • 日本語と英語の本質的な違いを重点的に説明するような教育をすべきであるとの主張
  • ニホン英語を許容すべきであるとの主張
(E)英語教育の達成レベルに関する議論
  • 英語学習の負担を増やすことによって、他の学力が低下するのではないかという主張。
  • バイリンガルは1つのコンピュータに2つのOSを混在させるようなものだという出張。
  • この程度の改善策では期待される目標は達成できないという悲観論。
(F)英語教育の方法をめぐる議論
  • 優秀なピアニストが必ずしも優秀なピアノ教師でないのと同様、外国人(ネイティブ)は必ずしも優秀な英語教師になりえないとの主張
  • 英語表現の間違いを罰するような教育システムでは、英語を能動的に使う行動自体が弱化されるとの主張
というように分類することができる。

 もちろんこれらは相互に連関しており、例えば(A)に関する前提が異なれば、達成内容やレベルはまるっきり変わってくるし、また、(D)や(E)が異なれば、それを達成するための方法も変わってくる。

 反面、(A)が不一致であっても達成内容が似てくるということもありうる。例えば、(A)の原則論に基づいてニホン英語を説く立場もあれば、習得時の過渡的段階として自信をつけさせるためにニホン英語を許容すべきだという立場もあるが、どちらも、こまごまとした誤用は許容するという点で、結果的によく似た方法が提言される可能性もある。

次回以降、これらの異論の中から特に重視すべき問題点をいくつかひろってみたいと思う。