じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 7/29の夕刻、西の空の雲の上に道路のような黒い筋が入っていた。ちょうど、日の沈む方角に大きな積乱雲があり、その影が雲の上に投影されたものと思われる。右は、影の境界にラインを入れて見やすくした写真。 [今日の写真]





7月29日(月)


【思ったこと】
_20729(月)[心理]奉仕活動の単位認定はいろいろと問題

 中央教育審議会は29日の総会で、青少年の奉仕・体験活動の推進策について遠山・文部科学相に答申をしたという。7/30の朝日新聞によれば、答申に記された奉仕活動とは
自分の時間を提供し、対価を目的とせず、自分を含め地域や社会のために役立つ活動
として定義されており、それを推進するために
  • 小中高では「ヤングボランティアパスポート」に活動内容を記録し、公共施設の入場を割り引くなどの特典
  • 高校では単位として認め入試で積極的に評価
  • 大学では正規科目にし、休学制度などで長期間の活動をしやすい環境を整備
  • 行政や企業は職員採用でボランティア経験を重視
といった方策が提言されているという。奉仕活動や体験活動を活性化すること自体は大いに結構であり、そのことを教育とリンクさせた点は大きな前進であると思うのだが、現実にこれを実行に移すとなるといろいろな弊害が出てくる恐れがある。

 いちばんの問題は、「対価を目的とせず」という定義が建前だけに終わってしまいそうなことだ。この場合の「対価」とは、貨幣による報酬や、便宜をはかってもらうことを意味するのだと思うが、例えば公共施設の入場を割り引くというのは金券を支給することと本質的に変わりない。お金は貰えなくても、入試や単位取得や就職で有利になるということは長期的な対価に繋がる。要するに、個人的に有利な結果を得るという別の目的のために、手段としてボランティア活動に参加する若者が増えないかということだ。

 ボランティア活動であれ、生活のための労働であれ、われわれが能動的に関わる行動(=「オペラント行動」という意味)は、すべてそれに伴う結果によって強化・維持されている。いかなる結果ももたらさない行動は「無駄な行動」であり消去される。これが行動分析の基本である。

●対価を目的とせず、自分を含め地域や社会のために役立つ

という「奉仕活動」のほんらいの意味は、

●奉仕活動は、「貨幣」や「便宜」ではなく「自己の成長」や「地域や社会への貢献」という結果によって強化されるものである

と捉えなおさなければならない。要するに、「公共施設が割引にならなくても、単位にならなくても、入試や就職で有利にならなくても、そういうことと無関係に強化・維持される行動」こそが真のボランティア活動なのである。

 とはいえ、「自己の成長」や「地域や社会への貢献」などというものは、具体的な結果としては見えにくい特徴がある。そういうものは、長期間の積み重ねを経て初めて現れてくるものであるし、また、集団で行う奉仕活動の中では、一人の力はあまりにも小さすぎて自分の関与が見えてこない場合が多いからである。ボランティア活動に参加しないのは、決して自己中心的だからではない。それに参加した時に随伴する結果があまりにも小さく、適切に強化されていないことが一番の原因である。

 以上を総合するならば、
  • 奉仕活動は、ほんらい、貨幣(報酬)や便宜(単位、入試、就職等)という結果で強化されるべきものではない。
  • とはいえ、何も結果を伴わない行動は消去される宿命にある。
  • 「自己の成長」や「地域や社会への貢献」は結果として見えにくいので、これを補完するような具体的結果を人為的に付加する必要がある。
ということになる。このWeb日記でも何度か取り上げているが、「エコマネー」は、その特効薬として大いに期待できる。なぜなら、エコマネーの場合は、コミュニティ内部での福祉、互助、自己啓発などに流通範囲が限られているため、それを支払うということ自体が「自己の成長」や「地域や社会への貢献」の数量的表現として具体化されるからである。 答申全文を入手した時点で、このような発想がどこかに活かされているかどうか、点検してみたいと思っている。




 大学教育におけるボランティア活動の評価では、上記とは全く別に、カルト宗教団体による「ニセ・ボランティア活動」から学生をどう守るかという問題がある。7/9の日記7/10の日記で、NGO会員を名乗る若い女性が募金に来た話題を取り上げたが、なんとその女性は、心理学の大学院生室にハンカチを売りに来ていたことが最近になって分かった。たまたま在室していた院生は、ハンカチは要らないのでカンパだけしたということだったが、ご丁寧にその団体の活動を紹介すチラシが、院生室内のホワイトボードに貼られていた。念のため再度チラシに記されていた団体名をネット検索したところ、こちらのリストに挙げられている団体の1つであることが確認できた。前回も述べたが、これと似たような名前の団体はこちらのリストにも加えられている。

 当該の団体は、おそらく、部分的には、福祉や国際協力活動の実績があるものと思われる。しかし同時に、特定カルト宗教団体を脱会した元信者たちの多くが「ニセ募金活動をさせられた」と証言しているのも事実だ。

 いちばんの問題は、彼らが募金活動を行うさいに、一般市民を安心させるための手段として、そういう活動の写真や資料などを使っていることである。善良な市民は「ボランティア活動は良いことだ」という前提で判断するため、そこまで見せられれば、もはや疑いの目は向けない。今回、カンパをしたのはコミュニケーションや印象形成を研究テーマにしている大学院生であった。そういう問題に関心のある大学院生ですら疑いを向けなかったということからみて、一般の教員が安易にボランティアサークルの顧問になったり、外部との繋がりをよく調べずに単位を認定してしまうという恐れは十分にありうると思う。

 大部分は善意の団体であろうと確信しているが、大学において、奉仕活動、ボランティア活動を評価するにあたっては、カルト宗教団体の関与についての情報を教員の間で十分に共有しておくことが不可欠ではないかと思っている。