じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] キウイフルーツの実がたくさんなった。植えてから3年目の株。1年目は全くならず、2年目は2〜3個程度、今年は全部で20個ほど。オスの株も十分に育ってたくさん花をつけたことが好結果をもたらした。





7月13日(土)

【ちょっと思ったこと】

セリーグとパリーグはどう違う?

 プロ野球オールスターの中継をやっていたが、我が家ではチャンネル争いもあってなかなか観ることができない。特に、妻と娘は野球には全く関心が無いのである。この日も、チャンネルを回していてたまたま中継シーンがあった時に、娘が

ねえ、セリーグとパリーグってどう違うの? どうして分かれているの?

と質問をしてきた。それに対する妻の答えは

衆議院と参議院の違いみたいなものかしら

あまりの的はずれな説明に私は凍ってしまった。



農業を目指す若者たち

 少し前の話題になるが、7/11(木)放送のNHKクローズアップ現代「農業を目指す若者たち」を視た。

 農水省の調査では、新規に農業に就く29歳以下の若者の数は、平成2年には3100人、これが平成12年には6600人にまで倍増したという。この数は、自動車業界に就職する若者の数の2倍になるという。

 新規に農業を始めると言っても、いきなり専業農家となって田畑を耕すわけではない。これらの若者の多くは、リクルートスーツを着て、農業法人への就職を目ざすのである。ちなみに、農業法人はこの5年間に166%の成長、初任給は地方公務員並みであるというから、決して悪くはない。有給休暇もちゃんと取れる。

 農業を希望する若者が増えた背景には長引く不況もあるが、根源的には、作物を「育てる」という喜びがあるためではないかと思う。インタビューに応じた若者も「給料だけもらうだけの企業労働は嫌だ」、「生き物を相手にする仕事の面白さ」を強調していた。さらに、上記のように「勤め人感覚」で気楽に働けること、また、「農業=一次産業」から「農業=生命系産業」というようにイメージが変わってきたことも魅力を与える要因になっているようだ。

 もっとも、今回の番組を視た限りでは、ここで言われている「農業」とは、園芸作物栽培、観葉植物のリース、観光イチゴ園、...というように、あくまで消費者のニーズを第一に考えたビジネスとしての農業であった。もっと根源的な、自然との共生、特に、水田を中心とし景観にも配慮した伝統への関わりというものが見えてこなかった。経営効率を優先する限り、本当の意味での「育てる喜び」には連結しないようにも思えるのだが、今後、効率性と「育てる喜び」の両立の道はどう開かれていくのだろうか。
【思ったこと】
_20713(土)[心理]英語教育と日本語文法を疑う(5):選抜試験は「自信英語」の最大の敵かも/電子辞書アリの試験にすべき

 昨日の日記では

●『アジアをつなぐ英語〜英語の新しい国際的役割』(アルク、1999年)

という本名信行・青山学院大学国際政治経済学部教授の著書から、

●Better is the enemy of good.

その意味するところは

よりよいものを求めることはけっこうだが、いまここにあるよいものを犠牲にしてはならない。

というイタリアの諺を引用させていただいた。勉強と趣味という違いはあるが、このことは、囲碁、将棋、オセロ、麻雀などで遊ぶ時にも当てはまるのではないかと思う。

 最近TVアニメ「ヒカルの碁」の影響で人気が出てきたと言われる囲碁など、ルールそのものはきわめて簡単であり、要するに「たくさん置いたほうが勝ち」という勝敗ルールと、禁じ手(自殺手など)さえ理解できれば誰でも遊ぶことができる[2001年5月2日の日記参照]。上達するには複雑な定石を覚えなければならないが、それを知らないからといって楽しめないわけではない。

 英語でも似たところがあって、2年前にパキスタン〜中国を旅行した時もそうだったが、お互いに下手な英語だと逆に話が弾むことがある。




 さて、ここで留意しておきたいのは、「Better is the enemy of good.」という精神は決して向上を否定していないということだ。つまり、より良い表現(←必ずしもネイティブが使う表現ということではない、古くさくてもよいが、より正確に情報を伝えられる表現という意味)があればそちらに乗り換えること、また、誤解を招く表現は慎むという切磋琢磨のプロセスがあってこそ向上はもたらされる。それを可能にするのが英語教育の現場であり、また、国際交流、短期留学などの機会であろう。

 しかし、そのような向上は、あくまで

●改善すれば得になるが、改善しなくてもペナルティは課せられない。

という「好子出現の随伴性」の中で「分化強化」されていくべきものである。間違えるたびにダメだダメだと怒られていたのでは萎縮してしまって、「英語を使う」行動そのものが「弱化」されてしまうだろう。だからこそ、1999年10月23日以降の連載では、「そうとも言う英語」(=「あなたの表現は正しいかもしれないが、日本型英語では私の表現は誤りとは見なされていない。文句あっか。」という態度)の必要性を説いたのであった。

 となると、入試などの選抜試験の手段として英語を用いることは、「自信英語」を使うことを逆に妨げてしまう恐れがある。なぜならば、受験勉強というのは、少しでも点を取って合格可能性を高めるために行う勉強である。そこでは

●改善すれば得になるが、改善しなくてもペナルティは課せられない。

などと悠長なことは言ってられない。

●改善すれば得点が増え合格可能性を高めることにるが、改善しなければ得点は取れず、不合格という不利な結果を招くことになる。

という「阻止の随伴性」で義務づけられ、結果的に英語使用の自発頻度を低めてしまう恐れがある。



 それから、これは少し別の話題に移るが、「自信英語」を使うためには、いま頭の中に持ち合わせているものだけでなく、身の回りにあるものは何でも使って良いという寛容で柔軟な環境作りが必要ではないかと思う。

 例えば、英語のスペリングを正確に覚えるために多大な時間を使うというのは、今の時代、本当に必要なことなのだろうか。今では、ポケットに入るような電子辞書が安価で手に入る。ワープロで英文を書く時には、常駐型の辞書が使えるし、スペルチェックだってやってくれる。中学・高校生は、そんなことの暗記のために貴重な時間を使うべきではない。いっそのこと、試験中でも電子辞書使用自由にしてしまえばよいのだ。

 いろいろ書いてきたが、中学・高校の英語教育の中では、ネイティブの真似をさせることではなく、日本語と英語の本質的な違いがどこにあるのかをじっくり教えることに時間を費やすべきだ。この視点に立って、次回からは、

●『日本語に主語はいらない〜百年の誤謬を正す』(金谷武洋、講談社選書メチエ、2002年)

を引用しつつ、この問題を考えていきたいと思う。