じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] テンニンギク。丈夫で開花期間が長く、公共的な花壇に適している。花色は、黄色だけのものから、殆ど赤みがかったものまで多種多様。好みの色合いを増やすのは難しい。また、たくさん種ができる割には、発芽率が悪い。





6月9日(日)

【ちょっと思ったこと】


いちばんスピードの出る滑り台

 6/10朝のローカルニュースで、小学生の数学嫌いを無くすための公開授業のようなものを紹介していた。講師は秋山仁先生ほか。チラッと紹介された映像で面白いと思ったのは、滑り台の斜面の曲線が異なると、転がるボールのスピードが変わるという実験。その中で最適な曲線は何か?ということだった。直観的には、滑り初めを急坂にしておいて加速度をつけ、次第に水平成分の速度を上げるというのが最適であろうと思うが、小学生にどう理解させるのだろう。




サッカーはどこに感動すればよいのか

 サッカー・ワールドカップで日本が初勝利。残るチュニジア戦で勝利もしくは引き分ければ決勝トーナメント進出が決まることになったという。日本国民の一員たる私も、試合終了前の10分ほどをテレビで観戦したが、どちらかというとロシアに押され気味でヒヤヒヤし、早く時間が過ぎて勝利が決まればよいというそればかりを願っていた。今回のロシア戦の結果は多くの日本人に喜びをもたらしたであろうが、その実体は何なんだろうか。選手達の技の素晴らしさなのか、「長年の努力が報われた」という抽象論なのか、シベリア抑留や北方領土問題での反ロシア感情への鬱憤を晴らしたことなのか、決勝トーナメント進出の可能性が高まることによる経済効果への期待なのか、この時期に調査などしてみたら面白いのではないかと思う。はっきり言えるのは、個々のプレイやプロセスに対する感動が無いと、バブルは必ずはじけるであろうということ。

【思ったこと】
_20609(日)[心理]「奇跡の詩人」もはや私の出る幕はないが...

 5/22の日記で、「ファシリテイテッド・コミュニケーションと重度障害者の権利」について私なりの考えをまとめてみた。その後、話題の元となったNHKスペシャル 4/28放映「奇跡の詩人 〜11歳 脳障害児のメッセージ〜」と5/11の土曜スタジオパークでの釈明を録画したビデオを某筋より借り受け、本日の昼になって、やっとそれを拝見することができた。

 元の番組を視た直後の率直な印象は、やはり、障害児R君自身ではなく、母親自身が障害児の腕と文字盤を動かしているのではないかということであった。そういう疑念をいだかせてしまうということ自体に、番組構成に問題があったことは確かだ。視聴者に驚きと感動を与えるためには、まずは、母親自身が動かしているのではないという証拠を誰の目にも分かるように示しておく必要がある。何も難しい実験は要らない。母親が知り得ない情報を障害児だけに伝えておき、その内容が文字盤で再現できることを示すだけでよいのだ。テレビなんだから映像で示せば一目瞭然。どうしてそういう配慮をしなかったのだろう。




 さて、このことをWeb日記に書こうと思っていたところ、Web日記の登録サイトの1つである「日記才人」を通じて、こちらがあることを知った。そこからイモヅル式に別サイトに飛んでみると、実にさまざまな意見が寄せられていることに驚く。オウム問題で名を知られるようになった滝本弁護士やら有田芳生氏までが本を出すという。もはや、私の出る幕など無いという感じだ。

 私が考えたことの大部分は、すでに、こちらやその続編で主張されていることの中で言い尽くされており、もはや私の出る幕は無いのだが、あえて自分なりの枠組みを示すならば、
  1. 番組で紹介された事例の真偽に関わる問題
  2. 番組で紹介されたR君の権利に関わる問題
  3. 派生的に論じられているFC(ファシリテイテッド・コミュニケーション)、ドーマン法一般の妥当性についての議論
は分けて考えたほうがスッキリするように思った。

 5/22の日記で述べたように、ファシリテイテッド・コミュニケーション(以下「FC」と略す)は、それ自体、倫理的に問題の多い方法である。しかし、今回の番組の真偽(=障害児自身の反応なのか、母親の思いこみによる反応なのか)に限っているならば、それはあくまで個別の事例であって、FC自体の問題点によって左右されるものではない。つまり、
  • FCが間違っているからという理由で、今回の事例を否定することはできない。早い話、ドーマン法の成功事例が少ないと主張しても、今回のR君はその数少ない成功例だと言われればそれまでだろう。
  • いっぱんにFCと言っても、ファシリテイター(親などの介助者)の関与の度合いは人さまざまであろう。今回の事例ではFCが用いられたというが、「用いた」ということは必ずしも、提唱者が定めた技法を厳格に守ったということを意味しない。母親がFCを曲解して度を過ぎた介助をしただけなのかもしれない。従って、今回の番組が「偽」であったからといってFCの有効性が全否定されたことにはならないし、逆に「真」であったからといってFCが実証されたことにはならない。ある独自の方法がその個人にとって有効であるかどうかという問題と、その方法の外的妥当性は別の問題である
 となれば、ちょうどこちらのサイトで提唱されているように、まずは
  • 母親のいない部屋で、Rくんに簡単な質問をする。
  • 別室で母親を介してRくんに答えてもらう。ここでの立会い者は、質問者とは別人とする。そうすると、この部屋で答えを知っているのはRくん唯一人となる。
  • Rくんの答えをの正誤を質問者の部屋へ行って確かめる。
という形で、誰の目にも明らかな証拠を示すことが先決だ[実名は長谷川のほうでR君に変更した]。それさえ示されれば、
  • あんなに早い動きで本当に文字を指しているんですか?
  • 2000冊も読めるんですか?
などの疑問は二の次だ。

 とにかく、すでに放送され、これだけ騒がれてしまった。放送局としての信頼回復も必要だが、実名で紹介された家族の名誉を挽回するためにも、「障害児R君は、母親の知り得ない情報をも発信できる」という証拠を映像で示すことが何よりも求められると思う。




 ところで、今回話題になったドーマン法は、ドッツカード(「http://www.tera-soft.co.jp/」など参照)等、乳幼児向けの英才教育開発でも知られている。息子が生まれた頃にも、妻が近所の奥さん(←ドーマンではなく、七田式の熱心な実践者だった)からその話を聞いてきて、ケント紙にシールなど貼っていたことがあった。それをやるなら、パソコン画面でランダムにドットを出すべきだなどと、妻と論争したこともあったが、しょせん長続きしなかった。

 障害児向けであれ、英才教育であれ、この種の手法を実験的に否定することはきわめて難しい。まずは、子どもを被験者に使うことの倫理的な問題がある。それと、実験のロジックとして、万能性は否定できても、特殊な有効性は決して否定できないからである。ある超能力者の「透視」が盗み見であったことを証明しても、透視能力はゼッタイに存在しないということの証明にならないのと同じである。この種の有効性は、結局のところ、それを実践したことでどれだけ成果が上がったのかによって、歴史的に検証されるだろう。ある教育法を受けた子どもたちの中からノーベル賞受賞者が何人も出れば、否応なしに関心が向けられる。いっぽう、何年経っても、眉唾物の「脳力開発」ばかりを繰り返しているような所は、誰からも支持されなくなるに違いない。




 長くなってしまったが、今回の事例は、個別的な問題としては、やはり真偽の実証にかかっていると思う。しかし、より一般的には、やはりFCの人権上の問題に関心が向けられるべきだろう。この点は5/22の日記に述べたので、ここでは繰り返さない。いまR君にとって大切なのは、本をたくさん書いて出版社を儲けさせることではない。母親の助けを借りずに、能動的なコミュニケーション方法を獲得することである。すでに亡くなられた轟木敏秀さんが活用しておられたように、いまの時代、指先の微小な力だけでもセンサーでキャッチし、ワープロ入力をすることができるようになっている。個人の尊厳の基本は、あくまで主体性、能動性にあると思う。障害児を抱えた親にとっては辛い決断であろうが、障害は無くすことができると信じ込んで回復訓練に励み、あげくのはては共依存に陥ってしまうことより、障害を受け入れ、その上で少しでも能動的にできるリパートリーを増やすことのほうが、けっきょくは当人のプラスになるのではないかと思う。