じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

5月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る

[今日の写真] オオキンケイギク。この時期、旭川沿いの土手や高速道路でよく見かける花。繁殖力旺盛で、いったん種がこぼれると他の植物を圧倒する勢い。ここに咲いている花も、近くの花壇で抜き取った株から種が落ちて野生化したもの。





5月22日(水)

【ちょっと思ったこと】

ダ○キンとミ○タードーナッツの関係

 新聞に「肉まん添加物でダ○キン関連会社を捜索」という見出しが目についた。ダ○キンと言えば清掃用品レンタル、最初は、ミ○タードーナッツの店内清掃をダスキンが請け負い清掃中に有害なクリーナーでも使用していたのかと思っていたほどであったが、よく読むと、ミ○タードーナッツのチェーンを運営していたのがダ○キンだったのね。妻も初めて知ったと言っていた。

 ダ○キンの名前が目立つことはミ○タードーナッツの看板に傷をつけない効果があるかもしれない。とはいえ「清掃用品&ドーナッツ」というリンクが広く知られたことで、店のイメージに悪影響を与えることはないだろうか。
【思ったこと】
_20522(水)[心理]ファシリテイテッド・コミュニケーションと重度障害者の権利

 脳障害の男児が文字盤を指して詩を綴る様子が少し前の某TV番組で紹介された。番組そのものを素直に受け入れるならば「重い脳障害があっても適切な訓練を重ねればこんなに素晴らしい能力を発揮できるのか」という感動を呼ぶ内容であったと聞いているが(←私自身は残念ながらこれを視る機会が無かった)、その後「あれは本当に本人の行動なのか」という疑問が寄せられネット上でも議論が交わされていると聞いた。その後私の参加しているMLでも意見が寄せられるようになってきた。いったいどこに問題があったのか、私なりに整理してみたいと思う。

 まず、そもそもファシリテイテッド・コミュニケーション(以下「FC」と略す)とは何かと言えば、ファシリテイター(親などの介助者)が自閉症あるいは中重度の知的障害者の手や腕に触れ、一緒になって文字盤などを指し示し、コミュニケーションをはかろうとする技法であるという。開発者は、米国のグレン・ドーマン博士、1955年に人間能力開発研究所を開設し、指導を行っている。しかし、この方法の有効性を示す客観的証拠は得られていない。もっぱら、個別的な成功事例が紹介されているだけであるという。

 では、このFCがTV番組で無批判に紹介されるとどのような問題があるのだろう。MLで紹介されていた国際行動分析学会の公式見解を基に自分自身の言葉で再整理してみると、次のようになる。
  1. ファシリテイターが、みずからは気づかない状況のもとで、障害者を誘導してしまう恐れ。極端な場合、ファシリテイターの思いこみが障害者の自発的意志として取り違えられる恐れすらある。
  2. (あくまでFCが有効であると仮定した上での話だが)コミュニケーション手段をFCに頼ってしまうと、障害者はファシリテイターなしには意思を伝えることができなくなる。結果的に障害者の自立を妨げることになるし、ファシリテイターには隠しておきたいような考えを第三者に伝える手段が奪われてしまう。
  3. このFCが最良であると思い込むことによって、地道ではあるが科学的な有効性が実証されている別の教育・治療を受ける機会を失ってしまう恐れ。
  4. FCの効果に過剰かつ実現不可能な期待をいだくことによって、現実を受け入れたり背伸びをしない適応をめざす努力を否定してしまう恐れ。
 このうち3.は、「○○でガンが消えた」などといううたい文句で「健康」食品を販売したり、カルト宗教にマインドコントロールされる場合にもありがちな弊害だ。例えば、ガンにかかった人が、最先端の医療技術を使えばあと10年は生き延びられる可能性を持っていたとする。ところが、科学的根拠の無い民間療法を信じ込んだばかりに、最良の治療法を拒否してしまえば、結果的に悪化して2年で亡くなるかもしれない。

 4.に関しては、今でも再放送されている「大草原の小さな家」の最終回のシーンを思い出す。教会の牧師からも自重を求められたにもかかわらず、障害を負った息子と共に山に籠もり、神の力にすがるというストーリーだったと記憶している。ドラマでは確かに奇跡は実現したが、あれはあくまで物語の中での話。「奇跡」を信じる生き方は、多くの場合、現実への不適応を引き起こす。




 ところで、今回のような「美談」が紹介されると、じゃあ、それに代わるよりよい生き方を示すことができるのか、たとえ思い込みであっても、重い障害を背負った子とその親が共依存関係のもとでポジティブな生き方をしているならそれでよいじゃないかという意見も出てくると思う。しかし、どんなに重い障害があったとしても、障害者はやはり一人の人間であって、ペットや人形とは違う。心の傷を癒すためにペットや人形に語りかけ、あたかも自分の子どものように扱うという生き方は過渡的にはあってもよいと思うが、それは非人間が対象であればこそ許されるのである。欧米と日本では「共依存」についての考え方も多少異なるとは思うが、どのような障害者であれ、寝たきりの痴呆老人であれ、

能動的に働きかけ、強化される権利

は最大限に尊重されなければならない。FCは「能動」の機会を奪うという点でやはり問題があると思う。