じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 正月明け最初の(燃やす)ゴミ回収日。各所で大量のゴミが出されたらしく、結局この日は回収に来なかった。





1月7日(月)

【思ったこと】
_20107(月)[電脳]年賀状交換は多様な価値観のぶつけ合いか

 3日続けて年賀状ネタとなってしまった。昨日の日記で「電子年賀状は虚礼廃止の移行措置か」と書いたところ、ある先生から「年賀状を虚礼と断じてしまう論理展開にさみしさを覚えました」というコメントをいただいた。私が「虚礼としての年賀状交換を廃止し」といったのは、決して世間一般の年賀状すべてを虚礼だと決めつけたものではなく、あくまで自分自身が交換してきた年賀状の中で、虚礼にすぎない部分はネット上での日常的な交流に置き換えるべきであること、その移行段階として、電子年賀状がきっかけづくりに貢献するのではないかという考えを述べたものであった。

 「虚礼」にあたる年賀状としてどういうものを考えていたかと言えば
  • 「相手から先に貰うと失礼になるので、先に出しておこう」というだけの理由で差し出すもの。この比率は結構多い。
  • 何年間も一度も会っていないのに「旧年中はたいへんお世話になりました」などというメッセージが書かれてあるもの。
などなど。それと、お互いが元旦に届くように賀状を出す場合は、相手のメッセージを読んで返事を書くわけではないので、双方向のコミュニケーションとは言い難い。それぞれ1年前に受け取った賀状に対して返事を書いているにすぎないのである。




 いずれにせよ、賀状の交換というのは、各人の多様な価値観がぶつかり合う場になっているところがある。

 例えば、郵便による賀状だけの時代にも、ごく少数ながら「私は元日を迎えてから年賀状を書く」という方針を貫いている人が居た。受け取る側に取ってみれば、松の内を過ぎて賀状が届いても「今さら年賀葉書は残っていない」と困る場合があるが、新年を迎えた新しい気分でじっくりと書かれた賀状のほうが心がこもっていると言えないこともない。このほか、「賀状は手書きでないとダメだ」とか、「印刷でもよいが、一言手書きのメッセージを書き添えるべきだ」と考えている人もいる。

 年賀状の交換が日本の伝統文化だと言っても、低料金で葉書が配達されるようになった明治以降のことであろう。1/8の朝日新聞に掲載された「定期国民意識調査」(2001年12月9、10日面接調査実施。選挙人名簿からの無作為抽出3000人のうち有効回答2104人)によれば、「インターネットを使っていますか」という問いに「使っている」と答えた人は32%であり、ほぼ三分の一に達している。この比率は今後ますます増えるだろう。となれば、新年の挨拶のしかたも今後ますます多様なものになってくるだろう。

 服装や髪型のようなものは個々人の価値観をそのまま反映させることができるのに対して、賀状交換の場合は、差し出す側と受け取る側の価値観の違いにどう折り合いをつけるかが重要になってくる。お互いが「賀状交換は葉書で行うべきだ。元旦に配達されるように書くことが望ましい」と思っている場合は何ら問題ない。あるいはお互いが「葉書による賀状交換はもはや不要。日常のEメイル交換で十分」と思っている場合も同様だ。では、Aさんが葉書派、Bさんがネット派であった時はどう対処したらよいのだろう。思いつくままに挙げてみると...
  • 受け取る側に合わせる
    Aさんはネット経由でBさんに、Bさんは葉書でAさんに賀状を送る。賀状の形式は受け取る側に合わせるべきだと考えればこうなるが、Aさんがネットを使えない時には困ったことになる。

  • 両者が食い違う時は「伝統」を重んじる
    昔からあった葉書が基本。新しいことを始めるのは両者が一致した場合に限るという考え方。これが妥当なところかもしれないが、郵便配達が定着して100何十年しか経っていないものを「伝統」と呼ぶべきかどうかは疑問が残る。

  • 目上の人に合わせる
    恩師や年上の人に出す場合は、相手方の価値観に合わせるというもの。例えば、「賀状交換はネット上で」と考えている教員にはEメイルや掲示板書き込みで挨拶、「賀状は葉書でないとダメだ」と考えている教員には葉書で差し出すというもの。もっとも、友人相手の場合にはこれはあてはまらない。
 いろいろ考えはあろうかと思うが、何か新しいことを始めようとするときには、旧来のやり方を重んじる人々との間に何かと軋轢が生じるものだ。自分のやり方を貫くのではなく、ある程度は相手に合わせ、柔軟に接していくほかはあるまい。