じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] パキスタンのカラコルムハイウェイ沿いで出会った子どもたち。浅瀬で水浴びをしていたが、私の姿を見て駆け寄ってきた。髪の毛がまだ濡れている(左の写真)。右の写真の兄弟は、後ろの家に住んでいるという。流れている川は、いずれもインダス川。 [今日の写真]



9月17日(月)

【思ったこと】
_10917(月)[心理]アメリカ人と星条旗

 同時多発テロの被害を受けたアメリカでは、至る所に星条旗が掲げられているという。9/18朝のNHKニュースによれば、大リーグ・マリナーズのヘルメットにも星条旗のマークが付けられていた。

 このような国旗あふれる風景というと、北朝鮮や文化大革命時代の中国を思い浮かべてしまう。もっとも、北朝鮮やかつての中国の場合は政府の命令によるもの、これに対してアメリカの場合は、国民が自発的に掲げた結果であるという点が本質的に異なっている。

 9/15のお互い更新日記で、The Flag is Still There英文のWeb日記にリンクしながら、和田秀樹氏の『痛快!心理学』(2000年、集英社インターナショナル、ISBN4-7976-7022-3)の一節を引用したことがあった。
  • .....アメリカ人はつねに「自分は他人と違う」ということを感じています。そういう環境に置かれれば、自然に「他人と同じ自分でいたい」と望むようになると思うのです。[p.177]
  • .....アメリカのほうは放っておけば「みんなと同じ」横並び社会になってしまい、弊害が大きくなるので「他人と競争することが美徳である」という倫理を教え、日本のほうは反対に、そのままでは他人を蹴落とす競争をし始めるので、「和を大切にしなさい」と教えているのではないでしようか。[p.178]
 和田氏はこのほか、178頁のところで、個性や多様性を重んじるはずのアメリカ人が意外なほどに「みんなと同じ」になってしまうことについて次のように書いておられるが、今のところ、まさにその通りの国民性を反映しているように思える。
 たとえば、今どきのアメリ力ではタバコにも精神を落ち着ける効果があるなどとは、とても言えない状況です。女性が働くことの是非についても、議論の余地なしというほどの意見の一致ぶりです。アメリカは民主主義のリーダーを自称している国なのですから、もっと言論の自由があっていいはずなのですが、実際には正反対のことが起きているのです。
..................【中途略】....................
 またアメリカの裁判では陪審制が採用されていて、12人の陪審員の意見が全員一致でないと判決が出ないわけですが、かなりむずかしい事件でも1、2時間で意見が一致することが珍しくありません。
 このように意外なほどアメリカ人は、「みんなと同じ」になってしまう国民なのです。
 建物の3つの段階「ある、傷む、なくなる」のうちの「傷む」を経なかった「一段飛ばし」[加藤典洋氏、9/18朝日文化欄]、そして5000人以上の人々がいまなお行方不明と言われるショッキングな事態のなかでの特殊な現象かもしれないが、こういう事態のもとでアメリカ人の多くがどういう行動を取りがちであるのか、日本人はどこが違うのかについて、冷静に見つめていく必要があるように思う。
【思ったこと(2)】
_10917(月)[心理]行動分析学会年次大会(9)行動分析学の点検(6)

 他の話題を取り上げていたために一週間も間をあけてしまったが、8月下旬に行われた行動分析学会年次大会の報告の続き。

1日目午後:行動分析学の点検:強化と強化スケジュール(6)強化概念の天動説・地動説(3)能動表現と受動表現/言語に依存した概念的枠組

 9/6の日記で、強化概念の天動説、地動説という話題をとりあげた。強化概念は、モノの機能のように表現されるが、モノの機能と言っても、本当のところは、生活体側がそのモノによってどう影響されるのか、どう反応するのかを言い表す概念ということになる。そして、敢えてモノ側からの作用として動詞の能動形で表す理由については、
天動説の視点から天空を眺めるようなものと言えよう。生活体の行動を予測したり変容をサポートしていくためには、「条件づけ操作によって生活体内部で起こる変化」を「外界の事象の機能の獲得」として捉えたほうが議論がしやすいからである。
と述べた。

 このことをさらに押し広げてみると、我々が使っている動詞表現そのものがしばしば天動説的な視点に立っていることに気づく。
  • 「台風が速度を上げて北に進んでいる」→台風自身が能動的に速度を上げたり、進路を定めているわけではない。少し前の台風16号の動きを見ればわかるように、台風は動かしてくれる気流が無ければ自分では進めないのである。
  • 「月が出た」、「日が沈む」→地球の自転に伴って動いているように見えるだけのことだ。
  • 「インターネットは我々にたくさんの情報を提供する」→ネットが情報を提供するのではなく、我々がネットを通じて情報を獲得するのである。
 動詞を能動的に使うか受動的に使うかは、言語によっても変わってくるように思う。英語は、例え主語が無生物になろうとも能動態を好む言語であり、例えば、
  • 推奨されない英語表現(受動態):
    The following results of this experiment were obtained......
    In this experiment, the following results were obtained.
  • 推奨される英語表現(能動態):
    We obtained the following results in this experiment : ..
    This experiment yielded the following results:
といった事例が挙げることができるだろう(原文は『日本人の英語』[マーク・ピーターセン、岩波新書]による)。しかし、これを日本語に直した時には、
  • 実験から以下の結果が得られた。/実験から得られた結果は以下の通りであった。
  • 本実験では以下の結果が得られた。/本実験の結果は以下の通り。
というのはごく普通の表現であり、逆に
  • 我々は、この実験において以下のような結果を得た。
  • 本実験は次のような結果をもたらした。
というのは直訳的で不自然な印象を与える。



 以上は能動態を受動態という切り口から捉えてみたわけだが、日本語は必ずしも受動態志向というわけではない。岩谷宏氏の『にっぽん再鎖国論』(1982年)は、次のような例を挙げている。
  • 英語:Two and two make four.
  • 日本語:2と2で4になる
ここで、「Two and two make four.」は明らかに能動態だが、「4になる」というのは受動態とは異なる。これに関連して岩谷氏は、
  • Makeは"つくる"から派生している。
  • 日本語の「なる」は決して「つくる=make」ではない。またそれは、becomeでもない。becomeは、なにか、主語であるそのもの自身が別のものになることを意味するからである。上記の日本語には助詞が「で」であるから、この意味での主語はない。
  • 英語の世界には、「事」から成り立つ「世界」がない。「世界」は抽象的な空間であって、そこに「物」の「動作」という“演技"が行われる。「動作」すなわち、Two and two make……なのである。
  • 日本語の世界には、あらかじめ抽象的な空間として設定される、"舞台"みたいな、「世界」という観念はない。
  • 日本人にとって、世界とは、「事」の連関、それ自体である。すなわち、2と2で4(という「事」)になるのであって、2と2が4(という「物」)を"つくる"のではない。
という本質的な違いを論じている。

 行動分析の概念的枠組みは、大部分、英語を母国語とする研究者によって構築された。それに引きずられて、本来は、コトとコトの連関を表すような状況においても、モノが舞台で振る舞うような表現になってしまった。このことを肝に銘じておく必要があると思う。