じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

7月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る

[今日の写真] 毎年、大学構内の空き地の水たまり(写真左、6/29撮影)でオタマジャクシが生まれる。今年はここ数日35度を超える炎天が続き、写真右のように殆ど干上がってしまった。7/3の夕刻に、生き残ったオタマジャクシを近くの池に無事移し替えた。夕刻とは言え、大学の教員が水たまりでオタマジャクシをすくっている姿はあまりカッコイイものではない。 [今日の写真]



7月3日(火)

【思ったこと】
_10703(火)[教育]「大変革期の大学」講演会(後)大学評価と「適格認定(accreditation)」

 「大変革期の大学」講演会の参加報告の最終回。今回は、木村孟・「大学評価・学位授与機構」長(元東京工業大学長)による「大学改革〜大学評価を中心として」というご講演の後半部分について感想を述べることにしたい。なお、昨日の日記同様、以下の内容紹介にあたっては、当日配布された印刷資料(パワーポイントでの表示内容のコピー)を一部引用させていただいている点をお断りしておく。

 木村先生のご講演の後半では、まず、大学評価がどのような経緯で進展してきたかについて
  • 限られた資源(縮む国家財政)をどのように効率的に配分するか
  • 高等教育の大衆化
という背景があり、平成3年の大学審議会答申の中で「教育方法の大綱化」、「学位規定の変更」と併せて「自己点検・自己評価」が提案されたことの意義を強調された。「自己評価・自己点検」は、外部評価、さらには第三者評価の必要性へと認識が高められていった。そこには文部省の予想を上回る進展があったという。

 大学評価の結果は経費配分には直接結びつけないと言われているが、現実には直結は必至とみるべきであろうと言う。もっとも、木村先生ご自身は、上記2つの背景のうち、高等教育の大衆化のほうを重大視しておられた。確かに、いくら経費配分を増やしてもらっても、入学者が大幅に定員割れしたり、教育成果が社会的に認められなければ大学としては成り立たない。その通りであろうと思った。

 さて、これまで大学評価というと、もっぱら誰が評価するのか、つまり、自己か、他の大学関係者か、第三者かという評価者のほうに関心が向けられていたが、今回のご講演は、
  • 何を基準として評価するのか
  • どういう面を評価するのか
という新たな視点が強調された点で大いに意義があったと思う。

 木村先生のご講演とは順序が逆になるが、上記のうちの後者:「どういう面を評価するのか」は、
  • 全学テーマ別評価
  • 分野別教育評価
  • 分野別研究評価
というように多面的かつ別々に評価されることを意味する。教育に特化する大学があってもよいというわけだ。




 さて、今回のご講演では、前者:「何を基準として評価するのか」に関して、「適格認定(accreditation)」という概念について、かなり詳しい説明があった。この概念は、じつは、先週のオーストラリア研修の際に、シドニーのAHNECA(Australian Nursing Homes and Extended Care Association-Federal)で、介護施設の適格認定に関して詳しい説明を聞いてきたばかりのことでもあり、特に強い印象を受けた。

 木村先生によれば、従来の大学評価というのは、それぞれの大学が独自に掲げている目的・目標に沿った評価であり、いわゆる「英国型大学評価」と呼ばれるスタイルであった。このスタイルの特徴は、ボトムラインが定められておらず、あくまで、目的・目標の達成度が評価の対象となる点にある。裏を返せば、評価者は、その大学の目的・目標自体は評価できないということだ。

 これに対して適格認定は、アメリカで広く行われている評価スタイルであり、スタンダードに合っているかどうかが評価対象となる点で大きく異なる。ちなみにアメリカには、公立大学608、公立短大1047、私立大1636、私立短大415という数の大学があるが、それらに対して「ジャーナリズムによる大学評価や、非営利の公的組織によるランキング、accreditation協会の認定が複雑に機能している」という。また、評価基準は、地域、専門分野など多面的に用意されており、それらによって最低基準が保証されているという。そもそも、社会が大学と見なすかどうかも、その大学が地域accreditation協会(全米6地域)に加盟しているかどうかで決まってくる。

 木村先生も指摘されていたように、こうしたaccreditationは、日本のような文部科学省主導の設置審査に比べると遙かに自由度があり、その時代の政治体制に影響されない研究・教育を保証する点でも大きなメリットがあると言える。また、そのような適格認定が、期限付き、定期的に再評価されることで、各大学には日々の点検・改善努力が要求される。日本では、これまで、いったん設置審を通ると二度とチェックがかからないという問題があった。

 反面、木村先生は、日本でaccreditationを導入していった場合に、大学の画一化が生じる恐れも指摘しておられた。




 以上、ご講演の前半部分について私の理解した範囲で要約させていただいた。ここで取り上げたaccreditation型の評価は、日本ではじつは、工学部系の学部ですでに実現段階にある(JABEEに関する資料参照)。各種資料によれば、JABEEは「日本技術者教育認定機構、Japan Accreditation Board of Engineering Education」の略であり、工学教育の品質を保証する基準作りがすでに実現段階に入っているようだ。ちなみに篠田先生の資料によれば、
JABEEでは、技術者(engineer、エンジニア)とは「技術(technology)を業とする(に携わる)もののうち、知識(工学)をその能力の中核におくものを指し、スキル(技能)を能力の中核とする技能者(technician、テクニシャン)を含まない」と定義し、技術者教育とは「工学、農学、理学についての高等教育の学士レベルに対応する技術者育成のための基礎教育のことである」と定義している。
という。有馬先生が強調しておられた「工業専門高校の強化」(7/1日記参照)とは異なるレベルの基準であろうとは思うが、有馬先生が指摘された「ポリテク型の教育機関を総合大学型にした」問題点とどう整合するのかはよく分からなかった。

 いずれにせよ総合大学でこれを導入した場合、全学部学生向けの教養科目も一部が適格認定の対象となる。認定をクリアするためには、担当教員の適格性はもとより、シラバスの記載項目の適格性、授業記録や成績評価の保管義務なども要件となってくるため、全学で対応しなければならないという別の検討課題が生じるの。

 このようなaccreditation型の評価は、文系でも、比較的「教えるべきことが決まっている」教育機関、例えばLAWスクールやビジネススクール、あるいは外国語専門教育の分野などでは導入可能と思われるが、「達成度」を客観的に測りにくい哲学などの分野まで広げられるかとなるとかなり疑問が残る。また、結局は、研究の中味が、客観的かつ量的な数値の向上(例えば論文数、学会発表数など)ばかりに偏向し、成果を出しやすいテーマへの集中、論文のための論文、実験のための実験ばかりがもてはやされるようになる傾向が危惧される。

 このほか、これは従来の評価を含めて言える点であるが、評価というのはあくまで活動の実体があった上での評価である。極端に言えば、活動がうまく機能している限りにおいては、評価のために人的あるいは時間的な負担を強いられるのは全くムダということになる。オーストラリアでいろいろな施設を訪れた時にも、「documentation(証拠書類の整備と報告書作成作業)に膨大な時間がとられる」という話をよく聞いた。これは、例えば、医師で言えば、患者を診る時間よりもカルテ作成に膨大な時間を費やすという矛盾につながる。そういう意味では、短いスパンで報告を求めるばかりでなく、ある程度長期的な視野に立って自由な研究・教育活動を許容し、長期的な成果を多面的かつ柔軟に評価する方法も取り入れていく必要もあるのではないかと思った。

 以上、3回に分けて講演会の感想を述べた。講演時間は短かったものの、今後の大学改革を考える上で意義のある内容であったと思う。