じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

7月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る

[今日の写真] 南の海。サンシャインシティの水族館にて。



7月2日(月)

【思ったこと】
_10702(月)[教育]「大変革期の大学」講演会(中編)大学の種別化と学歴社会/「IQではなく、EQ」という誤読

 昨日の日記に引き続いて、「大変革期の大学」講演会の参加報告。本日は、木村孟・「大学評価・学位授与機構」長(元東京工業大学長)による「大学改革〜大学評価を中心として」というご講演について感想を述べることにしたい。

 木村先生のご講演は、2つの話題から構成されていた。前半は大学の種別化について、後半はそれをふまえての大学評価についての話題であり特に「適格認定(accreditaion)」という概念が印象に残った。

 時間の都合で今回は前半の話題についてとりあげたい。なお以下の内容紹介にあたっては、当日配布された印刷資料(パワーポイントでの表示内容のコピー)を一部引用させていただいている点をあらかじめお断りしておく。

 木村先生はまず、少数(エリート)によって支持可能なシステム(日本なら明治20前後)が肥大化することによって、運転する知識量が飛躍的に増大し、世界的課題として高等教育の大衆化が必然的に起こることを主張された。マーチン・トロウによれば、大学進学率が15%以下はエリート化、50%以下はマス化、そして50%以上がユニバーサル化と呼ばれる。我が国はマス化の段階にあるが、近い将来にはユニバーサル化するであろうと予測されている(もっともそのスピードは当初の予測ほど急激ではなく、むしろそのことによって、少子化の中で大量の余剰定員が大学で発生する恐れが出てきたという)。

 こうした進学者増加による構造変動に対しては、中教審による昭和38年「大学教育の改善について」や昭和41年「後期中等教育の拡充整備について」答申の中ですでに多様化が提唱されており先見性があったと言えるが、55年体制の下のイデオロギー的反発により実現せずに終わった。そこで今こそ、ユニバーサル化にどう対処すべきかを考える時、というか、既に実行段階にあるというわけだ。

 木村先生によれば、ユニバーサル化のもとでは大学は大きく分けて次の3つに種別化される。
  1. エリート大学
  2. マスの大学
  3. ユニバーサルの大学
 このうちの1.は、学術・研究を推進する指導的立場の人材、あるいは産業、社会、科学技術をリードする人材を養成する教育・研究機関であり、そのさい、従来の偏差値にはよらない入学者選抜方法も考慮する必要があるという。

 次の2.は、専門家、中間管理者層を養成する大学。3.は、一般社会人としての教養、あるいは職業資格を求める人のための大学であり、モラトリアム学生に対応したり、レジャーランド的性格も持つという特徴がある。レジャーランドというと聞こえが悪いが、要するに、所得水準向上や余暇時間拡大が実現した高度成熟社会にあって、生活の楽しみや生き甲斐を求めるための教育を行うという意味であり、コミュニティ・カレッジ型の大学として位置づけられる。




 以上、ご講演の前半部分について私の理解した範囲で要約させていただいた。ここまで拝聴して私がまず思ったのは、こうした大学の種別化を社会的な選別システムとどう対応させるのか、という点であった。いかなる社会においても産業、社会、科学技術をリードするためのエリート集団は必要であり、かつそれらの人々を教育するための「エリート大学」の存在は要請される。このことは納得できるとしても、元東大総長の有馬先生や元東工大学長の木村先生から「エリート」という言葉が発せられると、どうしても、旧来の学歴社会の再構築を狙っているのではないか、あるいは、大学の種別化の名のもとに結局は、旧帝大を頂点とした序列化を目ざしているのではないかという印象がどうしても与えられてしまうのではないかと、ふと思った。

 ところで、この日記でたびたび引用させていただいている『受験勉強は子どもを救う:最新の医学が解き明かす「勉強」の効用』(河出書房新社、1996年)の中で和田秀樹氏は、かなり大ざっぱだと断った上で、社会的な選別システムとして、次の3つを挙げている[2000年3月14日の日記参照]。
  • ヨーロッパ型の世襲社会
  • アメリカ型の実力社会
  • アジア型の学歴社会
 言うまでもなく、日本の高等教育は従来は「アジア型の学歴社会」に分類されるものであったと考えられる。もっとも、二世議員が次々と誕生したり開業医の子弟が医師を目ざすということがあれば部分的には世襲社会としての性格を持つとも言えるし、終身雇用制や年功序列制の撤廃、賃金成果主義の導入などは、実力社会への構造改革をねらったものとも言える。

 近年、アメリカ型の実力主義導入の必要が説かれる一方でその弊害も数多く指摘され、一部では「日本型」の見直し論議、あるいは過去への回帰とは異なる新しいシステムの構築をめざす動きも出てきている。これらの背景のもとで、大学の種別化は、あるべき社会的選別システムと十分にリンクさせながら進められていかなければならない。大学の画一化は避けなければならないが、かといって固定的な序列化も望ましくないと思う。




 もう1つ、木村先生は、上述のエリート大学に関連して「従来の偏差値にはよらない入学者選抜方法も考慮する必要がある」ことを指摘された。これは「一芸に秀でた」学生や飛び入学のことを意味しているのではないかと思われるが、基本はあくまで「努力の質と量が公正に評価される選抜方法」であることを保持していただきたいと思う。「人物評価」を名目に安易にAO入試や推薦入試を導入することは、「目標に向かって努力する」ことよりも、うわべだけお行儀がよく「意欲があるように演じる」タイプの高校生を作ってしまう恐れがある。和田秀樹氏は『痛快! 心理学』の第7章の中の「誤読されたベストセラー」という節で、ダニエル・ゴールマンの『EQこころの知能指数』(土屋京子訳・講談社)の本が

「これからはIQではなく、EQの時代だ」とか、「IQの高い人間はEQが低いから成功できない」といった声がさかんに聞かれた.....

というように「誤読」されてしまったことを指摘しておられる。

IQが高いのにEQが低い人間がいる」ことが問題であるからといって、「EQさえ高ければいい」という話ではありません。「IQも、EQも」というのが、ゴールマンの言おうとしたことなのです。

ということであるとするならば、「学力よりも人物で」といった誤解に基づく選抜は避けるべきであろう。定員割れが危惧される大学が、受験生のプライドを守るための方便としてそれを使うというなら話は別であるが.....。

 少々脱線してしまった。次回は、木村先生のご講演の後半部分について感想を述べたいと思う。